
クリント・イーストウッド監督
2008年 アメリカ
朝から夏のような日差しが照りつける日。でもカラリと晴れて気持ちいい。
事前情報を入れないようにしていたので内容は全然知らないままなのに、勝手に「今日は『グラン・トリノ』日和だ」って思った。そんなわけで「チェンジリング」に引き続き、夕方のマリオンへとでかけた。
公開からほぼ1ヶ月ということもあって、上映館の丸の内ピカデリ−3は結構空いていた。前から9列目の真ん中に席を取る。ちょうどいいかんじだったけど、3席離れたおばちゃんがずっとガムを噛んでいてうるさかったので文句を言った。映画が始まってしばらくして、今度は目の前に座高の高い親父が座った。窓口で席を取るときに「そこは後ろにお客様が居ますので」と言われたりもしたし、これだけ空いているのに目の前に座るなんて、たぶん座席番号を間違えているに決まってるんだけど、おやじはそのままそこで見始めたのでちょっとむかつく。

イーストウッドが演じてるのは、妻の葬式にへそピアスで来てずっと携帯メールをやってる孫を白目を剥いてにらみつける、始終苦虫を噛み潰したようなしかめっつらのウォルト。こいつがまたとんでもない偏屈な愛国主義の人種差別ジジイで、ジャップの作ったTOYOTAのセールスマンをする息子は大嫌いだわ、隣に住む東洋人は米喰い虫扱いだわ、朝鮮戦争でイエローをぶち殺したM1ライフルでチンピラをおどすわ。誰の事も認められぬまま、ただただ世界にムカついてるジジイ。…って、ガムおばちゃんや座高オヤジにムカついてる俺だって同じじゃん、きっとこのジジイが頑な心を溶かして「改心」していく話なんだろうなあ、なんて思いながら見ていたら全然違った。
めちゃくちゃヘビィだった映画「ミスティック・リバー」を撮った後に、「ミリオンダラー・ベイビー」なんていう素敵なラブストーリーを撮ってしまうイーストウッド。今回の「グラン・トリノ」も、しんどかった「チェンジリング」の後に撮られるべき映画だったんだな、きっと。
西部劇のようで西部劇じゃなかったあのとんでもない「許されざる者」以降でも、イーストウッドは単純明快な「スペース・カウボーイ」のような映画を何本か撮っている。そう、バリエーションはあれどスネやココロに傷持つヒーローが、悪者や困難や欺瞞と戦いぬいて、形はどうあれ最後にはしっかり己の意志をまっとうして、見ている方も気分爽快!っていういわゆるステレオタイプなあれ。
このタイプの場合、ヒーローが戦う悪者や困難や欺瞞自体についてはそれほど深く言及されることは無くて、ヒーローが立ち向かう「敵」としてのみ提示される。「真夜中のサバナ」「許されざる者」「ミスティック・リバー」「チェンジリング」などのように、見ている側を判断停止に追い込むこともない、すかっと爽やかイーストウッド。泣き濡れたとしても、きっとそれは心地の良いカタルシス。
とはいえ、監督自身が老齢となり「死」そのものが直接的なテーマとなって来た分、そのカタルシスは70年代80年代の作品と比べてほろ苦さ度も増してきている。ではこの「グラン・トリノ」はどうか。

主人公のウォルトは、全盛期のフォードで働いていたことを誇りに思っている元自動車工のポーランド系アメリカ人。
「グラン・トリノ」がフォードの車だってことも知らなかった僕から見ても、彼がずっと大事に手入れしてきて今でも新車のように光り輝くグラン・トリノは、ほれぼれするほどに美しい。ガレージには今でも専門工具がずらりと並ぶ。1930年生まれのイーストウッド自身とほぼ同年齢のウォルトは、まさしく典型的なマッチョなアメリカ人としての人生を生きて来たのだった。
でも、いつの間にやら近所は有色人種だらけ。家の前の庭とも呼べない小さなスペースの芝生を毎日芝刈り機で手入れして、星条旗を掲げた玄関先で老犬に愚痴をこぼしつつ、ひたすらにビールを飲むだけの日々。亡き妻に頼まれて懺悔を薦めにくる若い神父を「失せろ。この童貞野郎」と怒鳴りつけ、老人ホームのパンフレットを手に誕生日を祝いに来た息子夫婦もすげなく追い返し、ひたすら苦虫を噛み潰したようなしかめっ面をするばかり。どんなに愛車のグラン・トリノをピカピカにしても、誰も自分を理解する者などいない。
そんなウォルトが、隣人の東洋人の娘をチンピラから救う(「Go Ahead. Make My Day」とは言わないまでも似たようなおっかない感じで)。そこからはじまる偏屈ジジイと東洋人一家との奇妙な交流。押しつけがましい東洋人の謝礼に辟易しつつ、逆にステレオタイプなマッチョ・アメリカンの流儀を若き東洋人に教えこもうとしたりもする。そしておきまりの悪者との戦いとほろ苦い勝利。結局は映画の最後まで頑迷な己の意志を貫き通したウォルトだった。
彼のラストカットは「スペースカウボーイ」のトミー・リー・ジョーンズのラストカットと同様、映画史に残る名シーンなのだし、エンディング・ロールとともに流れるイーストウッド自身のしわがれた歌声を聞きながら、こみあげてくる涙を乾かすのに必死になっていたのも確かだけれど、こんなに笑えるイーストウッド映画は久しぶりに見た気がする。「死」をテーマとしつつも「ミリオンダラー・ベイビー」のほろ苦さとはまた違う、爽やかな風のようなエンディングのカタルシスは、笑えるほどに愛らしい物語の中盤部分にしっかりと支えられていたはずなのだ。

互いに相容れるはずのない他者同士のままに、己の誇りを貫こうとするそのカッコよさ。
今までのイーストウッド作品でそれは必然的に「戦い」として形になってきたのだし、「わかってたまるか」という鋼の鎧は、敵の銃弾をことごとくはじき返してきたはずだ。けれど、今回の「悪者との戦い」はあくまでも二次的なものだった気がする。ラストに至るまでのすべてのアクションシーンが手に汗握る秀逸なものであるのは当然だとしても、ウォルトにとってそれらは「戦い」というよりは、頑迷な自分自身を再確認しオトシマエをつけるための手段にすぎなかったのだから。
互いに相容れるはずのない他者同士のままに、己の誇りを貫こうとするそのおかしさ愛おしさ。
「わかってたまるか」という鋼の鎧につつまれた、柔らかくて弱々しい「わかってもらえるさ」。それが次第に見え隠れする微笑ましさは、今までのイーストウッド映画では見られなかったものではないか。もしかすると、ウォルトと東洋人の老婆が玄関先で噛みタバコを吐きあいながら互いにわからない言葉でののしりあう序盤の短いシーンこそが、この映画を一番象徴しているのかもしれない。それは、戦いではなく交流へと繋がっていく、なんとも下品な最初の挨拶だったのだから。「グラン・トリノ」最大の見所である、東洋人のおばちゃんに囲まれた食卓のウォルト(というよりはイーストウッド?)のあの可愛らしさだって、きっとこの挨拶なしにはあり得ない。そして、映画のラストで誇らしげに走り去っていくグラン・トリノを運転していたのは一体誰だったか。僕らはそれをしっかりと見届けたはずだろう。

So tenderly your story is
nothing more than what you see
or what you've done or will become
standing strong do you belong
in your skin; just wondering
gentle now the tender breeze blows
whispers through my Gran Torino
whistling another tired song
engine humms and bitter dreams grow
heart locked in a Gran Torino
it beats a lonely rhythm all night long
it beats a lonely rhythm all night long
it beats a lonely rhythm all night long
最近の(というよりはこれまでの)イーストウッド映画にはあまりなかった包み込むようなおおらかで優しい空気と、あの東洋人の少年タオのひたむきな眼差しが、ふと「童年往事」を思い出させたりもしたけれど、なんにせよ「グラン・トリノ日和」という直感は間違っていなかったなあと感じた今日だった。

関連外部リンク
映画『グラン・トリノ』オフィシャルサイトeiga.com:クリント・イーストウッドが語る「グラン・トリノ」クリント・イーストウッド関連のtext
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