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「純喫茶磯辺」再見 ~仲 里依紗の圧倒的な存在感~

磯辺1

吉田恵輔監督
2008年 日本

ひと月前に見たばかりで直後にミクシィのレビューにも駄文を書きなぐったばっかりなのに、なんかそのあともずーっと気になってて、今日改めてもう一回見た「純喫茶磯辺」という邦画。レビューにあらためて感想を書き込もうと思ったら、二度は書き込めないのね。なのでブログに書いてみた。


初めて見たときは、なにしろとにかく「アレ」ばっかしの台詞とか、居酒屋の客の外人が「とりあえずビール」を連発するとか、そんなレトリックがどうしたって気になったし、それはまるでほらアレだ、ユニコーンってバンドが流行った当時にどうしてもそのあざとさが気になって、結局好きになったのは奥田民生がソロでデビューしてしばらくしてからだった、ってのともちょっと似ているかもしれない。といってもこの映画の場合は「あざとい」ってほどでもないし、一発で大好きになってたんだけどね。
言ってみりゃ日本人が賢しげに日本をワラってみました的そんなレトリック。
話に出たついでにユニコーンの「ニッポンへ行くの巻」の歌詞でも思い浮かべてくれるといいのかもしれない。

なにしろ相手かまわずすぐにごにょごにょ口ごもってしまう特に主義主張も信仰も持たぬ小市民的な日本人を、戯画的なまでに誇張して描いているこの映画。
鼻につく人は鼻につくかもしれないけど、なんか身につまされるというか、憎めないというか、全編に漂う曖昧な空気が逆にリアルだったりもして。
宮迫演じるエロダメオヤジしかり、別れた妻で「アレ」の達人の濱田マリしかり、同じく「アレ」の達人で「毎回付き合う男に殴られる」という麻生久美子しかり。
彼らが醸し出す微妙な空気は、その時々でうまく行っていたり気まずかったり、時にはぶん殴られて鼻血を垂らすことがあったり、でも結局は絶対に破綻を来すことはなく。うだつのあがらぬ日々をぬるま湯加減で平穏無事に生きていくための、臆病者な日本人の知恵。

最初に見たときはどうしたってそうした描写ばかりに目が行ってしまったけど、二度目は不思議と気にならず、その分宮迫の娘、磯部咲子役の仲 里依紗の生々しい迫力を何倍も感じることができた。
この女子高生咲子の生臭さは、戯画的に描かれている大人たちの中にあってひときわ際立っていたみたい。ムカついた顔の不細工さ、ふとしたときの無心な表情の可憐さ、かわいく見せようとするときの醜悪さ、そして微妙な空気を一瞬でぶち壊す啖呵のものすごさ。本当に場面ごとに全部顔が違うのです。

下手をしたら三木聡的なゆるい脱力系の笑いのみに終始していたであろうこの映画は、仲 里依紗の圧倒的な存在感によって現代を代表する「邦画」と成り得たのだった!

磯辺4

関連外部リンク
仲里依紗&吉田恵輔監督 インタビュー『純喫茶磯辺』
映画芸術- 『純喫茶 磯辺』 吉田恵輔(監督)インタビュー



「TOKYO EYES」~懐かしき東京の世紀末

TOKYO EYES glass
ジャン=ピエール・リモザン(Jean-Pierre Limosin)監督 
1998年 フランス, 日本

フランスの監督が日本の俳優を使って撮った
下北沢を舞台にした世紀末の東京の映画。

春に旧友たちと会ったときに「外国人が撮った日本映画」の話になって
この映画も話題にのぼったんだけど、そのときにはタイトルすら思い出せず。
後日、昔録画したビデオテープを発見。
武田真治と吉川ひなののボーイミーツガール映画だった。
公衆電話の順番待ちをしているかと思えば携帯が出てきたり
服装チェックをするディスコが登場したりとそんな時代の東京物語。

見終わってからネットで調べてみたら
「フランス人が撮ると東京がこんなにオシャレになるんだ」
などという公開当時の意見も見かけたけれど
逆に今じゃ無駄にスタイリッシュに撮るヤカラが増えたよねーw

ヒロインを演じる吉川ひなのは見事な大根で、鈴木清順へのオマージュであろう
武田真治に目玉を舐めてもらってゴミを取るシーンなんかを台無しにするのだが
天然キャラの素のまんま、自由奔放に共演者をたじたじにするアドリブばしばし
決めて、空気壊しまくりのフレンチロリータと言ったオモムキがとてもよい(何)

TOKYO EYES hinano 1
TOKYO EYES hinano 2TOKYO EYES hinano 3

公開当時は現代版「勝手にしやがれ」などと言われていたそうだ。
確かに武田真治はかなり色っぽい。

TOKYO EYES takeda 3
TOKYO EYES takeda 2
TOKYO EYES tadeka 1

どっちかっていうと「汚れた血」や「ポンヌフの恋人」を撮った
レオス・カラックスっぽいかも?
でもそれよりももっと近いのは、テレビ版の「探偵物語」だったという不思議。
なんというかあのテキトーな空気感が、この映画にもざわざわとうごめいている。

それとも、もう既にこの映画の東京は「古き良き東京」なのか。
外人でもなければ上京組でもなく、演劇やってるわけでもなし
特に下北沢には思い入れないんだけどねーw



「TOKYO EYES」予告編


ビートたけし演じるダメヤクザも素敵。


「グラン・トリノ」にうってつけの日

gran torino_1
クリント・イーストウッド監督
2008年 アメリカ 


朝から夏のような日差しが照りつける日。でもカラリと晴れて気持ちいい。
事前情報を入れないようにしていたので内容は全然知らないままなのに、勝手に「今日は『グラン・トリノ』日和だ」って思った。そんなわけで「チェンジリング」に引き続き、夕方のマリオンへとでかけた。

公開からほぼ1ヶ月ということもあって、上映館の丸の内ピカデリ−3は結構空いていた。前から9列目の真ん中に席を取る。ちょうどいいかんじだったけど、3席離れたおばちゃんがずっとガムを噛んでいてうるさかったので文句を言った。映画が始まってしばらくして、今度は目の前に座高の高い親父が座った。窓口で席を取るときに「そこは後ろにお客様が居ますので」と言われたりもしたし、これだけ空いているのに目の前に座るなんて、たぶん座席番号を間違えているに決まってるんだけど、おやじはそのままそこで見始めたのでちょっとむかつく。

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イーストウッドが演じてるのは、妻の葬式にへそピアスで来てずっと携帯メールをやってる孫を白目を剥いてにらみつける、始終苦虫を噛み潰したようなしかめっつらのウォルト。こいつがまたとんでもない偏屈な愛国主義の人種差別ジジイで、ジャップの作ったTOYOTAのセールスマンをする息子は大嫌いだわ、隣に住む東洋人は米喰い虫扱いだわ、朝鮮戦争でイエローをぶち殺したM1ライフルでチンピラをおどすわ。誰の事も認められぬまま、ただただ世界にムカついてるジジイ。…って、ガムおばちゃんや座高オヤジにムカついてる俺だって同じじゃん、きっとこのジジイが頑な心を溶かして「改心」していく話なんだろうなあ、なんて思いながら見ていたら全然違った。

めちゃくちゃヘビィだった映画「ミスティック・リバー」を撮った後に、「ミリオンダラー・ベイビー」なんていう素敵なラブストーリーを撮ってしまうイーストウッド。今回の「グラン・トリノ」も、しんどかった「チェンジリング」の後に撮られるべき映画だったんだな、きっと。

西部劇のようで西部劇じゃなかったあのとんでもない「許されざる者」以降でも、イーストウッドは単純明快な「スペース・カウボーイ」のような映画を何本か撮っている。そう、バリエーションはあれどスネやココロに傷持つヒーローが、悪者や困難や欺瞞と戦いぬいて、形はどうあれ最後にはしっかり己の意志をまっとうして、見ている方も気分爽快!っていういわゆるステレオタイプなあれ。
このタイプの場合、ヒーローが戦う悪者や困難や欺瞞自体についてはそれほど深く言及されることは無くて、ヒーローが立ち向かう「敵」としてのみ提示される。「真夜中のサバナ」「許されざる者」「ミスティック・リバー」「チェンジリング」などのように、見ている側を判断停止に追い込むこともない、すかっと爽やかイーストウッド。泣き濡れたとしても、きっとそれは心地の良いカタルシス。
とはいえ、監督自身が老齢となり「死」そのものが直接的なテーマとなって来た分、そのカタルシスは70年代80年代の作品と比べてほろ苦さ度も増してきている。ではこの「グラン・トリノ」はどうか。

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主人公のウォルトは、全盛期のフォードで働いていたことを誇りに思っている元自動車工のポーランド系アメリカ人。
「グラン・トリノ」がフォードの車だってことも知らなかった僕から見ても、彼がずっと大事に手入れしてきて今でも新車のように光り輝くグラン・トリノは、ほれぼれするほどに美しい。ガレージには今でも専門工具がずらりと並ぶ。1930年生まれのイーストウッド自身とほぼ同年齢のウォルトは、まさしく典型的なマッチョなアメリカ人としての人生を生きて来たのだった。
でも、いつの間にやら近所は有色人種だらけ。家の前の庭とも呼べない小さなスペースの芝生を毎日芝刈り機で手入れして、星条旗を掲げた玄関先で老犬に愚痴をこぼしつつ、ひたすらにビールを飲むだけの日々。亡き妻に頼まれて懺悔を薦めにくる若い神父を「失せろ。この童貞野郎」と怒鳴りつけ、老人ホームのパンフレットを手に誕生日を祝いに来た息子夫婦もすげなく追い返し、ひたすら苦虫を噛み潰したようなしかめっ面をするばかり。どんなに愛車のグラン・トリノをピカピカにしても、誰も自分を理解する者などいない。

そんなウォルトが、隣人の東洋人の娘をチンピラから救う(「Go Ahead. Make My Day」とは言わないまでも似たようなおっかない感じで)。そこからはじまる偏屈ジジイと東洋人一家との奇妙な交流。押しつけがましい東洋人の謝礼に辟易しつつ、逆にステレオタイプなマッチョ・アメリカンの流儀を若き東洋人に教えこもうとしたりもする。そしておきまりの悪者との戦いとほろ苦い勝利。結局は映画の最後まで頑迷な己の意志を貫き通したウォルトだった。

彼のラストカットは「スペースカウボーイ」のトミー・リー・ジョーンズのラストカットと同様、映画史に残る名シーンなのだし、エンディング・ロールとともに流れるイーストウッド自身のしわがれた歌声を聞きながら、こみあげてくる涙を乾かすのに必死になっていたのも確かだけれど、こんなに笑えるイーストウッド映画は久しぶりに見た気がする。「死」をテーマとしつつも「ミリオンダラー・ベイビー」のほろ苦さとはまた違う、爽やかな風のようなエンディングのカタルシスは、笑えるほどに愛らしい物語の中盤部分にしっかりと支えられていたはずなのだ。

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互いに相容れるはずのない他者同士のままに、己の誇りを貫こうとするそのカッコよさ。

今までのイーストウッド作品でそれは必然的に「戦い」として形になってきたのだし、「わかってたまるか」という鋼の鎧は、敵の銃弾をことごとくはじき返してきたはずだ。けれど、今回の「悪者との戦い」はあくまでも二次的なものだった気がする。ラストに至るまでのすべてのアクションシーンが手に汗握る秀逸なものであるのは当然だとしても、ウォルトにとってそれらは「戦い」というよりは、頑迷な自分自身を再確認しオトシマエをつけるための手段にすぎなかったのだから。

互いに相容れるはずのない他者同士のままに、己の誇りを貫こうとするそのおかしさ愛おしさ。

「わかってたまるか」という鋼の鎧につつまれた、柔らかくて弱々しい「わかってもらえるさ」。それが次第に見え隠れする微笑ましさは、今までのイーストウッド映画では見られなかったものではないか。もしかすると、ウォルトと東洋人の老婆が玄関先で噛みタバコを吐きあいながら互いにわからない言葉でののしりあう序盤の短いシーンこそが、この映画を一番象徴しているのかもしれない。それは、戦いではなく交流へと繋がっていく、なんとも下品な最初の挨拶だったのだから。「グラン・トリノ」最大の見所である、東洋人のおばちゃんに囲まれた食卓のウォルト(というよりはイーストウッド?)のあの可愛らしさだって、きっとこの挨拶なしにはあり得ない。そして、映画のラストで誇らしげに走り去っていくグラン・トリノを運転していたのは一体誰だったか。僕らはそれをしっかりと見届けたはずだろう。

gran torino_1


So tenderly your story is
nothing more than what you see
or what you've done or will become
standing strong do you belong
in your skin; just wondering

gentle now the tender breeze blows
whispers through my Gran Torino
whistling another tired song

engine humms and bitter dreams grow
heart locked in a Gran Torino
it beats a lonely rhythm all night long
it beats a lonely rhythm all night long
it beats a lonely rhythm all night long


最近の(というよりはこれまでの)イーストウッド映画にはあまりなかった包み込むようなおおらかで優しい空気と、あの東洋人の少年タオのひたむきな眼差しが、ふと「童年往事」を思い出させたりもしたけれど、なんにせよ「グラン・トリノ日和」という直感は間違っていなかったなあと感じた今日だった。

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関連外部リンク
映画『グラン・トリノ』オフィシャルサイト
eiga.com:クリント・イーストウッドが語る「グラン・トリノ」


クリント・イーストウッド関連のtext
アカデミー賞のクリント・イーストウッド
クリント・イーストウッドのインタビュー番組
「a Perfect World」
「トゥルー・クライム」
「ミリオンダラー・ベイビー」 ~七夕のハートウォーミング~
「父親たちの星条旗」
「硫黄島からの手紙」 ~悲情から非情へと向う、ただ独りきりの行軍~
「チェンジリング」~終わることのない、恐るべき現実の中で~

 


「チェンジリング」~終わることなきこの現実の中で~

チェンジリング
クリント・イーストウッド監督
2008年 アメリカ

1920年代のロサンジェルスを舞台にした、カフカ的不条理というにはあまりに生々しい現実に、子供を誘拐されたシングルマザーが翻弄される実話とかなんとか。

前作の「硫黄島からの手紙」を劇場で見損ねていたので、今回こそはと気合いを入れて、日劇あらためTOHOシネマズ日劇へとでかけた。 レディースデイなれど16:20からの回は予想通り他の回よりちょっとは空いていたようで、少し前の方だったけどいい席が取れた。でもやっぱり、窓口で席を決める全席指定システムってどうも苦手。

映画冒頭のロゴ・マークはいつものワーナーのものではなくてユニバーサル。
あとでパンフレットを読んでみたら、ユニバーサル所属のロン・ハワード監督(今回は製作)からお声がかかったのだとか。

主演のアンジェリーナのシンボルとも言うべき、そのコケティッシュな唇は当時の流行であった真っ赤なルージュに塗りつぶされていて、まずそれがモノトーンの画面の中で陰惨なくらいにどぎつい。 そしてまた、涙でどろどろに溶けた真っ黒なアイシャドウの中に見開かれた真っ赤な大きな目が、これまた恐ろしい。
最近のイーストウッド映画と同様、とても静かに淡々と物語は進行していく。サスペンス的要素に満ち、また社会派的なテーマでもあり、いろいろなことを感じさせられながら見ていたはずなのに。

アンジェリーナ演じるクリスティンは、電話会社で働くバリバリの「男勝り」なキャリア・ウーマンであり、社会や組織の中での身の振り方をわきまえている女性。ひたすらに己の感情を抑圧して不条理な罠にもじっと耐え、事態の好転をひたすらに祈っている。
その真っ赤な唇と大きな目。 次第に塗り込められてゆく黒い黒い闇。
だんだんとわけがわからなくなってくるこの感じをなんと表現するべきか。

やがて、唐突に訪れる、爆発、爆発、爆発。
そのカタルシスを微塵も伴わない、苦痛に満ちた大爆発に、きっと誰もが「許されざる者」の主人公マーニーを思い出したことだろう。ただ、その爆発の直後に静かなエンディングを迎えた「許されざる者」とは異なり、この映画はちっとも終わらない。 「すいませんでした。もう勘弁してください」なんて言ってもまるで無駄。 もはや「物語」を味わう余裕などどこにもなく、目の前に起きていく出来事を、引きずられるようになすすべもなく凝視するのみ。
・・・本当に、恐ろしい恐ろしい映画でした。

昔「許されざる者」を見たときに、「こんな恐ろしい映画を何度も見られる人たちの鈍感さが信じられない」なんて思ったりしたもんだけど、「ミスティック・リバー」や「硫黄島からの手紙」を経て、その度合はますます激しくなっている模様。もはや娯楽どころか芸術ですらないのかも。

「かつて『ペイルライダー』に胸躍らせ『スペースカウボーイ』に号泣した者も、今やただ成す術もなくひれ伏すことでしかイーストウッド作品と接することができなくなっている」とは、パンフレットに寄せられた黒沢清の一文。

自分がぶっ壊れちゃうかもしれないのが怖いけど、それでもやっぱりイーストウッドの映画だけは、ちゃんと劇場で見続けなくちゃいけないんだろうなあ。

次は「グラン・トリノ」だ。



関連外部リンク
「チェンジリング」オフィシャルサイト



クリント・イーストウッド関連のtext
アカデミー賞のクリント・イーストウッド
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「硫黄島からの手紙」 ~悲情から非情へと向う、ただ独りきりの行軍~
「グラン・トリノ」にうってつけの日

「トルパン」~砂まみれの耳が聴いた、喧しすぎる命どもの音~

tulpan-タイトル

セルゲイ・ドヴォルツェヴォイ監督
2008年 ドイツ・スイス・カザフスタン・ロシア・ポーランド
第21回東京国際映画祭コンペティション出品作品

さて困った。なにから書けばよいものやら。。
なんだかもんのすごいものを見てしまったんだけど。
一期一会とはまさにこのことかも。

まず、暗闇の中にゆっくりとタイトルが浮かび上がる。メインスタッフの名前が続くなか、どかどかと大地を走り抜けていく四つ足動物の足音が聞こえてくる。
「おお。やっぱり中央アジアは馬なんだな。『ルナ・パパ』の冒頭の馬も見事だったよなあ」などと思いながら見ていると、明るくなった画面に映し出されたのはなんとラクダ! 聞いたこともないような素っ頓狂なオタケビをあげて駆け抜けていくラクダどもに、あっという間に魂を抜かれてしまう。
砂嵐吹き荒れるカザフスタンのステップこそが、この映画の舞台。

ラクダが行き過ぎて砂ぼこりがおさまると、おんぼろトラクターが横付けされたユルト(カザフのパオ)が見えてくる。その中では、砂しかないステップにはなんとも不釣り合いな水兵の格好をしたヤサ男が、得意げに巨大タコと格闘した話を老夫婦に聞かせている。ヤサ男の名前はアサ。彼はこのユルトに住む娘、トルパンを嫁に取りにやってきたらしいのだが、結局トルパンは最後まで顔を出そうとはしない。布の壁の隙間からアサの様子を窺う目のカット。にやにや笑いながらその壁の方を見ているのは、トラクターの運転手でアサの友人のボニー。いつまでも終わらないへらへらしたアサの自慢話を「もういい。やめろ。」と苦々しく遮るのは、アサの義兄オンダス。

帰り道を疾走していくトラクターは、ボニーMの"Rivers of Babylon"(→YouTubeリンク)を大爆音で鳴らしている。なにしろまわりにはなーんにもないのだ。字幕では「草原」となっていたけれど、草もロクに生えていない見渡す限りほぼ砂の大地。町などない。道すらない。木もない。でも、砂漠ではない。そんな土地の物語。
水兵服のアサは浮かれて結婚式の話なんかをしながら、音楽に合わせて腕をくねらせタコみたいに踊っている。
「音楽を止めろ! トルパンはお前と結婚しない。耳の大きい男は嫌いだそうだ。」
突然のオンダスの言葉に愕然とするアサとボニー。
言われてみれば確かに、ぐいっと前に張り出したアサの耳はとても立派だけど…
兵役を終えたばかりの都会育ちのアサは、遊牧民生活に憧れて姉夫婦のユルトに居候する身。独立するためには嫁を取らなくてはいけないのだが、もうこの近くには年頃の独身女性はいないみたい。

アメリカの皇太子よりは
性懲りもなく二度目の来訪。「ほら、『アメリカ』の皇太子よりは耳が小さいでしょ」
 

帰り着いたオンダスのユルトでは、オンダスの妻でアサの姉でもあるサマルがチーズを作っている。食事中だというのにいきなり大声で歌いだす娘のマハ。オンダスに「やめろ!」と何度叱られても、どうしても歌う衝動が止められないらしい。そんなマハの兄のベーケはといえば、四六時中ラジオを肌身離さず持っていて、夕食後に父の要求通りに「今日の世界情勢」を暗唱してみせたりもする。そして、動物の叫び声に勝るとも劣らない声をあげながら絶えず自由奔放縦横無尽に駆けずり回っているのは、末っ子のヌーカ。この幼児がなにしろ無敵。もう生きているのが楽しくてどうしようもないっ!といった感じで、いつだってどこだって嬉しそうにはしゃぎまわっている。そんなヌーカを見ていたらなぜか、「少年、機関車に乗る」でいつも隅っこでひとり土を食べていた 'デブちん' の、あの今にも泣き出しそうな顔を思い出してしまった。全然違うタイプなのにな。

砂嵐吹きすさぶ中をオンダスとアサが放牧にでかけていく。砂と羊の毛がごちゃまぜになった画面は、もうなにがなんだかわけがわからなくなっていて、風の轟音と羊とラクダとロバのグェーグェーウゴォウゴォというわめき声がそれに輪をかける。画面の奥へ駆けていく大群の中で器用にも交尾している羊がいるのが見えた気がした。
カオスと化した群れが過ぎ去った後には、ロバはロバでのんきに交尾している遠景のカット。どこで拾ったのか木の枝にまたがった無敵幼児ヌーカが、テッテケテッテケテッテケテーとか言いながら、嬉しそうに交尾中のロバの方に走って行こうとする。それを巧みに呼び止めるサマル。毎日繰り返されているであろう、彼等の一日のはじまり。

tulpan-馬上のオンダス
馬上のオンダス


むやみに追いかけ回したあげく、アサが妊娠した羊を1頭逃がしてしまう。生まれてくる子羊がみな死んでしまうことに頭を痛めているオンダスは、苛ついてこっぴどくアサをどやしつける。砂で真っ白になっているアサの立派な耳。ボニーが自慢のトラクターで運んできた給水タンクの水を、へろへろになりながら浴びているアサの姿に思わず爆笑する場内。もうみんなすっかりアサたちの虜なんだ。
一方「家の中で歌うな」と父に叱られたマハは、今日はユルトの外に座って膝を抱えながら大声で歌い続けている。空を引き裂かんばかりに世界に響き渡るその声は、まるで「動くな、死ね、甦れ!」のカネフスキーの歌声のように心にぐさぐさと突き刺さってくる。

「一人前になるために嫁をもらいたい青年を中心に、厳しい自然の中で暮らす家族の姿をほのかなユーモアで包みながら描いていく作品。ひたすら広大な大地の姿に圧倒される!」 これは第21回東京国際映画祭の公式ページでのこの映画の紹介文なのだが、ひとつ間違っていることがある。それは、決して「ひたすら広大な大地の姿に圧倒される」わけではないということだ。
確かに、360度見渡す限りひたすらに砂の地平線が続くこの土地ならではの、夜空に急に光り出すおびただしい稲妻や、突然に巻きあがる竜巻などを、カメラはしっかりとらえている。けれど「広大な大地」そのものに感じ入りたいのならば、ハイビジョンカメラで撮影された大自然ドキュメンタリーなどを見た方がいい。それらの精緻なドキュメンタリーが、長い年月をかけて大自然の雄大な風景や生命の神秘的な美しさをとらえることを目的にしているのに対して、「トルパン」がとらえようとしているものは、もっとずっと狭い世界にぐちゃぐちゃになって犇めきあっている、ラクダや羊やロバや馬や人や犬や猫や亀の命どもの喧しさ、とでもいったものなのだから。

tulpan-引っ越し
引っ越しのためにユルトを解体するオンダス一家


映画の終盤、汚くて臭すぎる命と真正面から向かい合った後、へとへとになって大の字に寝転がったアサの横から聞こえてくる、あの優しくて柔らかな声。
カメラは声の主ではなく、空を仰ぎ見ているアサの横顔をじっと映し続けている。
その何とも言えぬ至福の瞬間。
我々が真に圧倒されるのは、広大な大地でもカザフの異文化でもなくて、こんな瞬間なのであり、それはまさに映画そのものの力なのである。


上映終了後、セルゲイ・ドヴォルツェヴォイ監督とアサ役のアスハット・クチンチレコフ、姉のサマル役のサマル・エスリャーモヴァが登壇してティーチ・インが始まった。
監督はともかくとして、つい今さっきまでカザフの砂嵐にまみれて遊牧生活をしていたはずのアサとサマルが小きれいな服を着て普通に登場したときに、軽いめまいを感じてしまったのは僕だけではないだろう。
監督はなんというかとてもニヒルな印象。時折にやりとはするものの、ほぼポーカーフェイス。そのくせ一旦話しだせば、日本語と英語の通訳をおいてけぼりにして止まらない。観客からの質問に答える形で、ステップで遊牧民と共に生活をしながら完成までに4年間かけたこと、動物をキャストやカメラに慣れさせるための膨大な時間のことなど、これまでに短編ドキュメンタリーを撮ってきたという監督ならではのエピソードが聞けた。

tulpan-teach in
左からセルゲイ・ドヴォルツェヴォイ監督、通訳さん、サマル役のサマル・エスリャーモヴァ、アサ役のアスハット・クチンチレコフ


無敵幼児ヌーカについては、「彼のおかげでとても空気がなごんだが、まるで小さなライオンのように現場をかき回してくれたのも事実。無論なにも指示などせず、彼の好きなように動いてもらったので、撮影がいったいどこに向かっていくのかわからなくなることもしばしばだった」とのこと。やっぱり無敵幼児は見たまんまに無敵だったんだね。
マハが歌っていた唄について質問したいなあと思っていたら、別の人が「劇中何度も流れていた歌はなにか?」と質問した。「同じ歌というが、いろんな歌があったはずだ。マハが歌っていたのはマハ自身が慣れ親しんでいる歌だし、サマルの歌は子供の頃に彼女のおばあさんから習った歌だ」と監督が答えると、そうではなくてトラクターでかかっていた曲のことだったらしい。「あの曲にはなんか意味があるのか?」と。「ああ、あの曲はボニーMのヒット曲だよ。知らない?ロシアじゃ有名なんだけどな。なんであの曲かと言えば、僕が好きだったから。監督にはそういう権限があるんだよ」と、にやりとする監督。なんにせよ、彼自身が好きな曲や演者(といってもサマル以外は素人らしいけど)自身に染みついている唄たちが、より一層この映画を喧しくしたことに間違いはないようである。

びっくりしたのはアサの立派な耳が実はメイクアップによるものだった、という話!
tulpan-大きな耳

言われてみれば目の前にいるアサ役のクチンチレコフの耳はごくごく普通。毎朝五時から耳にばねを仕込んだメイクアップをしていたんだそうな。トルパンに嫌われるためにそんな苦労をしていたなんて。監督の印象を聞かれたクチンチレコフは「天才と暴君が同居しているかんじ」と、笑いながら語っていた。

ティーチ・インの最後のドヴォルツェヴォイ監督の結びの一言。
「遊牧民と過酷な生活を共にしながら4年間撮影していた我々は、端から見たら気違いにみえるかもしれません。ですが我々は本当にカザフスタンを心から愛しているのです」
その通り、この映画はどこを切っても本当に気違いのような愛に満ち満ちている!

tulpan-舞台挨拶


最後に。
この文章を書きながらネットでいろいろ調べていたら、タイトルの「TULPAN」はカザフ語でチューリップを意味するそうだ。映画を見終わった後でそのことを知った僕は大いに合点がいったんだけど、もしこれから先にこの映画を見る機会に恵まれた人は、あらかじめこのことを知っておくのもよいかもしれないです。



関連する外部リンク
東京国際映画祭公式ページ - トルパン
CINEMA TOPICS ONLINE|『トルパン』来日記者会見
Sergei Dvortsevoy: Tulpan(英語サイト:監督インタビュー動画)
セガール気分で逢いましょう 『トルパン』
セガール気分で逢いましょう:『トルパン』インタビュー全文




<追記>
10月26日に行われた東京国際映画祭クロージング・セレモニーにて
『トルパン』が最優秀監督賞と東京サクラグランプリをダブル受賞しました。

東京国際映画祭のクロージング・セレモニーのオンデマンド配信ページ
(ページの下の方に部門別の動画があります)

ドヴォルツェヴォイ監督の興奮が伝わってきて、胸が熱くなりました。
おめでとうございます!



tulpan-アサとボニー


 

「タンカー・アタック」~失われた12分間のタンゴ~

タンカー司令官

バフティヤル・フドイナザーロフ監督
2006年 ロシア 日本劇場未公開作品
原題「Танкер Танго」(TANKER TANGO)

パッケージ裏のキャッチコピーには「バルト海上で渦巻くテロリストによる陰謀?―大人気ジャンル【海洋アクション】最新作!」なーんて書いてあるけど、これを信じちゃあいけません。

これはフドイナザーロフがこれまでに撮ってきた「ルナパパ」や「コシュバコシュ」同様、荒れ地に生きるたくましき人々の物語。
きっとプロデューサーとしてはハリウッドみたいな映画を作りたかったのかもしれないけれど、もしそうなのであれば起用すべき監督を間違えちゃったんだろうなー。

主人公のグレコフは、親友に共同出資の会社を乗っ取られて、タンゴという名の小さなタンカー一隻以外、すべてを失ってしまった男。

タンカーグレコフ

どこかおぼっちゃまっぽいグレコフ


再起をかけてロシアの軍事基地から石油の横流しをして儲けようとするも、海上油田基地爆破という悪だくみの罠にはまってしまう。
そうとは知らぬグレコフは、軍事基地のある港町で美しき未婚の母アンナと文字通り爆発的な出会いをするのであった…

タンカー海上のアンナ

勝ち気なヒロイン、アンナ


でも残念ながら、久々のフドイナザーロフに大満足!とまではいかず。。
いや別にCG使わない海洋アクションがチャチだとか、そういうことではもちろんなくて、いつも通り男はみんなやんちゃでガンコだし女は強くてめちゃ色っぽいし、タンカーも潜水艦も水陸両用戦車も自転車もすばらしかったんだけど、なーんか物足りないような・・・と思ったら、ロシアのサイトで見かけたこの写真のシーンがどこにもない!なんで!?

カットされたシーン

スチール見るだけでもこのシーンすごくいいのに…


調べてみたら、ロシアの映画紹介サイトでは110分のはずの映画が、購入したDVDでは98分。残りの12分はどこへ行った!
『タンカー・タンゴ』のネット動画も見返してみたら、DVDにはないシーンをいくつも発見。。主人公たちのデートのシーンやヒロインと酒場の女主人との交流などの「海洋アクション」的でない部分がバッサリ切られている。
アクションものとして売るために、「劇場未公開作だしどうせわかりっこないだろう」と誰かが(誰だ!)勝手にカットしたらしい(怒)

始めにも書いたけど、この映画は海洋アクションものにくくられるものではないし、油田爆破の陰謀とかもフドイナザーロフにかかればやんちゃな男どもの悪だくみにすぎないんだし、せっかく男と女のたくましい生き様を対等に描いてるのに、なぜ女性部分だけを切るのだ!と、恨めしくDVDパッケージを眺める。

タンカーDVD

そうか、この映画は「タンカー・タンゴ」じゃなくて「タンカー・アタック」なわけか…。大事なのはタンカーよりもタンゴの部分なんだろうに!著作権団体は、二次利用とかなんかよりもこういうことにこそ目くじらを立てるべきじゃないの?

と文句ぶーぶーだったりもするけれど、それでもやっぱり一見の価値はあり。
当たり前だけど、どこを切ってもフドイナザーロフ。
ネット上の情報があまりにも少ないので、魅力的な登場人物たちをちょっとご紹介。

タンカーバーのママ

海辺のバーの女主人。ちょっとしか出てこないけど、いい味だしてる熟女w


タンカーアンナ父

アンナのお父さん。『ルナ・パパ』同様、娘に近づく男にはめちゃ怖い…


タンカー隊長と司令官

軍事基地の司令官と旧友の隊長さん。渋いオヤジなくせに二人ともクソガキな性格


タンカートレズニャク

どこか壊れてるグレコフの悪友、トレズニャク


こいつの奔放で刹那的な生き様は、まるで「勝手にしやがれ」のジャン=ポール・ベルモンドのようだ。

そして、グレコフとアンナのつかず離れず逢瀬のシーンもいくつか。
タンカーふたり1

アンナの家におしかけるグレコフ


タンカーふたり3

鳩が飛びかう灯台にて


タンカーふたり2

雨のバーにグレコフを訪ねるアンナ


タンカー雨の自転車

雨の日の自転車の二人乗りはとても危険




水と火が交錯する中を、様々な立場の男と女の思わくと油田爆破の陰謀が、絡み合いながら展開してゆく物語。いつの日か、完全版の「タンカー・タンゴ」が見れることを切に願う。



タンカータンゴ号



関連text:あなたはバフティヤル・フドイナザーロフ監督を知っていますか?


「アメリカン・ニューシネマ」という、よくわからないジャンル

今週はずっとBSで「男たちの挽歌」というシリーズものの香港映画をやっていた。
「香港ノワール」といういかにも香港らしい胡散臭いジャンルに分類される
映画だそうなのだが、なんというか往年の角川映画みたいな雰囲気だったので
連日いつの間にか途中で寝てしまい、ちっともノワールな気分を味わえなかった。

そんなこともあってか、今夜はなんとなく以前ネットで見かけた
「wikipediaのアメリカン・ニューシネマの定義は如何なものか」という
文章のことを思い出して読み直したりしていた。
URLはこちら。続、続々、続々続と続いてます。
http://taroscafe.cocolog-nifty.com/taroscafe/2007/10/wikipedia_4dff.html

読みながら「確かにダーティ・ハリーやワイルド・バンチは違うよなー」と
共感しつつ、勝手にジョージ・ロイ・ヒルの映画は全部アメリカン・ニューシネマなんだと思ってたいい加減な俺の感覚とも微妙に違っていて、なかなか面白かったのである。

また、奥様の実家に行った時に「リアルタイムを知っている者と知らない者とでの、YMOに対する認識のギャップに驚いた」という義弟の話を聞きながら
YMOと西武とヘンタイヨイコ新聞なんかを並列に思い浮かべてしまった自分を思い出したりもして、なんかその辺絡めて久しぶりにブログでも書こうかなーとだらだらネット漂流を始めたら、案の定はまってしまったので今宵はその軌跡をば。

アメリカン・ニューシネマに愛をこめて
http://cinema.intercritique.com/pov.cgi?id=4541

アメリカン・ニュー・シネマ
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/4989/americannewcinema.html

アメリカン・ニューシネマの誕生とその時代
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/new-cinema.htm

と読み進めて来て、なるほどヌーベルヴァーグやネオレアリズモなんかと同列で認識されてるのねーとちょっと納得。
とはいえ「俺たちに明日はない」にしても「明日に向かって撃て!」にしても
なんとなく「皮かむり」的なイメージは、やっぱり拭えないまま。
こんなに賛美されているものだとは知らなかった。
もっと一時期のブームっぽいもんだとばかり思ってたんだけどな。
日本の「ニューミュージック」ってのと似てるような気がする。

そういやアメリカン・ニューシネマを「反映画的」とか言ってたのは
蓮實重彦だったっけか?と今度はアンチを調べようとしたらば横道へ・・・

黒いスピルバーグ
http://japan.cnet.com/blog/mugendai/2008/07/02/entry_27011881/

ユリイカにおける蓮實重彦と黒沢清のスピルバーグ放談についての感想文。
「ミュンヘン」にこれっぽっちの誠実さも感じられなかった俺もいちおー
ちょこっと立ち読みしたっけか。
ほとんど共感できないけど、トム・クルーズは好き。

んで、その流れで粗悪な蓮實クローンな人々の映画評なんかを見てたら
だんだん胸が悪くなってくるといういつものパターンへ・・・

あと、こんなのもありました。
「コードギアス」に受けた衝撃
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20070604#p2
コードギアスっていうアニメとアメリカン・ニューシネマについての薄めの考察。
俺はコードギアスは見たことないんだけど
蓮實教信者の読みにくい粘着文章に比べたら100倍マシw

結局「アメリカン・ニューシネマ」とはなんなのかよくわからないまま
「ジャンル」や「命名」や「同時代」ってなんだろー、とぼんやり考える
午前4時。

義弟が「普通に面白くてよかった」と言っていたF・コッポラの新作を
見に行きたい気もするけど、また行きそびれそうだなあ。渋谷だし。。

「西欧」~三度の土砂降りの夜を経た朝の選択~

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2002年 クリスティアン・ムンジウ監督

例えばバフティヤル・フドイナザーロフ監督の「コシュ・バ・コシュ ~恋はロープウェイに乗って~」が、内戦で混沌としていた撮影当時のタジキスタンの状況をごく普通のこととして描き、遠くに響く銃撃の音をBGMとしながら物語は進行していって、夜間の対空砲火を花火に見立てた恋人たちがうっとりと寄り添ったりする破天荒さに比べると、クリスティアン・ムンジウ監督の撮る1994年のルーマニアを舞台としたこの映画は、きっとはるかに問題意識に溢れているはずなのだろう。

2007年のカンヌでパルム・ドールを受賞した、チャウチェスク政権末期の若者たちの映画だという「4ヶ月、3週と2日」は残念ながら未見のままなのだけれど、先日フィルムセンターで、そのムンジウ監督のデビュー作である「西欧」~原題Occident(west)~を見た。時間ギリギリに会場に到着したら、思いのほか盛況でびっくり。EU FILM DAYS 2008という企画柄か、白人の客も多い中、日本語とフランス語の字幕付きでの上映だった。
チラシの案内で、現代ルーマニアを舞台とした若者たちのオムニバス形式の映画だということは知っていたけれど、せいぜいすれ違う程度だと思っていた各話の登場人物は密接に絡み合い、彼らが過ごした数日の出来事が浮かび上がる構成となっていた。

「ルーマニア版パルプ・フィクション」と言ってしまうにはあまりに語弊が多すぎるかもしれないが、苦い物語を時間軸を前後させながらコメディ・タッチのオムニバスで描いたという意味では、「パルプ・フィクション」にも確かに似ている。各話が終わるごとに二転三転していく「事実」。ひどい!と思った事柄が実は誤解だったり、よかった。と思っていたらあっけなく裏切られたり。一貫しているのは、彼らにとって未知の土地「西欧」が、いつも光り輝いているということか。
なんにしても、すごく笑えるくせ妙にじんわり心にしみる105分だった。機会があればぜひもう一度見直したい映画である。


パンフレットもなにもないので、以下忘れないうちに自分のためにあらすじを書いておこうと思う。
シーンの序列にはあまり自信なし。

第1話「ルチとソリナ」
画面を右から左にすすけた貨物列車が走り抜けると、貨物列車以上にすすけた公団のようなアパートが姿を現し、画面の手前からは買物帰りらしいカップル、ルチとソリナが線路をまたいでアパートへ帰って行く。ところがなぜか彼らの家具は全部アパートの前のぬかるんだ地面の上に出されている。ルチがあわてて部屋に行くと理由はよくわからないが隣に住む背の低い男がやらかしたことらしい。今までは男の情けで置いてもらっていたのかな?あきらめて外に出されたソファに腰掛け悩むルチ。とりあえず一人暮らしのおばさんのうちに転がり込もうと言うルチに対し、ソリナはいっそのこと外国で暮らしたいと言う。なんかオープンセットのような変な空間で、ソリナは「お父さんに相談に行く」とおもむろに着替えを始めるファースト・シーン。

続く墓地のシーンでは、ソリナが亡き父から啓示を受けようとしてルチと一緒に墓に向っている。
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「啓示を得るならもっと具体的に聞かなくちゃ。例えば『僕たちは外国に行くべきか。Yesならあそこのカラスを飛ばしてください』とかさ」「あ、飛んだわ。なら外国に行くのね」「あ、今のは例えばだから駄目。今度カラスが飛んだら外国には行かない」などとやっているふたり。遠くに墓地の通りをかけていく花嫁姿の女。と、どこからともなくワインの瓶が飛んで来て頭に当たり気を失うルチ。通りかかった赤い車に助けを求めるソリナ。

気を失ったルチは病院に運ばれてやけに太った看護婦ふたりの手当を受けるが、病院を出たルチが一人暮らしのおばさんの家に行ってみてもソリナはいない。どうやらルチは見限られた様子。おばさんはと言えば「体に悪いからだめ」と言われてもコーヒーに砂糖をがばがば入れている。おばさんが死ねばこの部屋はルチのものになり、ソリナとまた暮らすことができるのだが。おばさんはドイツに亡命した息子のニクをずっとひとりで待っているのだ。

ソリナが勤める幼稚園では、オランダから来たという男の前で幼児たちが「幸せなら手を叩こう」を合唱している。
唾を掛け合う悪ガキふたりが怒られている。「上手に歌えた人はこのおじさんに連れて行ってもらえますよ」と園長らしきおばさんがハッパをかけている。これでは「異人さんに連れられて行っちゃった」なんて唄の歌詞そのままじゃん、と思って見ていたら「孤児じゃない子が何人かまぎれこんでいるようですね」なんて台詞。どうやらオランダ人は養子を探しに来ているらしい。ワンルームのおばさんの家なんかに住みたくないソリナは、この幼稚園で寝泊まりさせてもらっているようだ。

転職して、デパートかなにかの「広告宣伝部」で働き始めたルチ。とはいえ仕事内容はビールの着ぐるみを来て街でビラを配ること。隣に携帯電話の着ぐるみがやって来たので声をかけようとすると逃げる携帯。どうやらルチの前にビールの着ぐるみを着ていた男とケンカをしたらしい着ぐるみ携帯は女性の声。恋人に電話したいから、と携帯に携帯を借りて電話するビールと、ビールにもらった缶ジュースをストローで飲む携帯の組み合わせが妙におかしすぎ。携帯女の名前はミハイル。次第に打ち解けていくふたり。頭の部分を外してベンチで休憩するシーンでは、さりげなくミハイルはコカ・コーラ、ルチはペプシを飲んでいたりする。

おばさんの隣に住んでいるルチの友人ジカがおばさんを遊園地に誘っている。「だめだよ。遊園地の乗物は体に悪いから」と言いながら相変わらず飲み物に砂糖をガバガバ入れているおばさん。ジカが持っていたタバコが、もう片方の手に持っていた赤い風船に触れていきなりパン!と割れたときは「おおっ」と声をあげてびっくりしてしまった。
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夜、幼稚園の前にハートマーク模様にロウソクを飾りソリナに戻って来てもらおうとするルチ。出迎えた園長はけんもほろろに彼女はもういないと言う。どうやら赤い車の男ジェロームの家に転がり込んだ模様。その家に押し掛けるルチにソリナは冷たい。ジェロームはベルギー人であと数日したらルーマニアを出国するという。すごすご帰るルチ。

夜の遊園地のシーン。
なにやら回転する乗物に乗りヘロヘロになったジカの横で嬉しそうにはしゃぐおばさん。下では携帯着ぐるみを着ていた同僚の女が男と一緒にベンチに座ってウォークマンを聴いている。「この曲好き」と男に聴かせる女。その途端ものすごい大音量でその曲が流れる。「僕たちは今は子供。だけど2000年になったら素敵な世界が待っている」共産主義時代のヒット曲だろうか、東欧のポップスらしいポルカ調の曲。不意に流れた元気いっぱいのこの曲で僕は大泣きしてしまった。ズルイよ、曲で泣かすなんて。

夜のカフェでルチが2人の男と会っている。ニクがドイツで死んだことをおばさんに伝えに来たというのだ。「なるべくショックがないように伝えてください」と頼むルチ。だがおばさんの部屋のドアをノックするやいなや「息子さんが死にました」とストレートに言う男たちのバストショット。ドサリと倒れる音に下を向くふたり。そこへルチもやってくる。居合わせたジカは「こんなチャンスはまたない。早くソリナのところに行って来い」とルチをけしかける。土砂降りの中自転車をこいでジェロームの家に向うルチ。しかし、数分前に赤い車はソリナを乗せて行ってしまいルチはひとり部屋の中で涙に暮れるのだった。


第2話「ミハイル」
披露宴の準備中ワインの瓶の数をチェックする花嫁の父。式の直前に消える花婿。とほうにくれて教会を出て墓地通りのベンチでうなだれる花嫁。奥の墓地ではルチとソリナが啓示を受けようとして神妙な顔をして座っている。花嫁の前に赤いジープが通りかかり止まる。一瞬希望に輝く花嫁の顔も、墓地から飛び出して来たソリナの「助けて」と言う声に行ってしまう車の後ろでまた暗くうなだれる。そんな彼女の手にはルービック・キューブ。
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花嫁の名前はミハイル。詩を書くのが好きな24歳の彼女は、デパートの広告宣伝部で携帯の着ぐるみを着て働いている。ミハイルの母は男運の悪いミハイルをいいかげん嫁がせようとひとり結婚相談所に足を運ぶ。そこは外国人専門の紹介所。次々と紹介される西欧に住む医者や弁護士はみんな60歳ぐらい。そんな母をよそにミハイルは次第に同僚のビール男ルチに淡い恋心を抱く。書いた詩を見せたり一緒に好きな曲を聴いたり。それでも母に説得されて相談所で紹介された男たちと街で見合いするミハイル。「ドラキュラとコマネチだけがルーマニアじゃありません」と真面目に語るミハイルの体を舐め回すように見るスケベオヤジ。
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ミハイルの母と友人の幼稚園の園長女史が「こんなレストランも民主化のおかげよねー」なんていいながら食事中。カメラが引くとそこは見慣れたマクドナルドの店内。
警察幹部を退職した「大佐」と呼ばれるミハイルの父は外国人との結婚には反対しているが母は「外国に行きたがっているのはミハイル自身なのだ」と説得する。

そんな中、若いイタリアの出版社の社長が紹介されてミハイルに会いにルーマニアにやってくることになった。大騒ぎしてかつての部下を使い家のインテリアをイタリアのものに変える大佐。ミロのビーナスの置物の腹には時計がついていたりする。母親が見よう見まねで作ったパスタがめちゃくちゃまずそう。ところが、現れたイタリア人ルイジは黒人で家族一同大ショック。人種差別意識が根強く残っているらしいルーマニアでは普通に笑えるシーンなのか、はたまた風刺的な描写なのか、素直に笑えないなんとも微妙なシーン。
ルイジはミハイルの詩をイタリアで出版してあげるという。彼との結婚を決意したミハイルは仕事を辞めることになり、仕事納めの日にルチにロッカー室で別れを告げる。鈍感なルチの頬にそっとキスをする彼女は、自分の書いた詩を押し付けるようにして去って行く。

大佐はドイツから来た男とともに、亡命したニクが死んだことをルチのおばに告げに行くことになった。事前にルチと会って話し、娘が外国に行くことになって空いた部屋をルチに貸すことになる。
おばの家を訪れ「息子さんが死にました」とあっけらかんと伝える大佐。ところが扉を開けたのはおばさんの隣に住むジカの母親だった。びっくりして倒れるジカの母親。住む部屋が見つかったことを伝えに帰ってきたルチ。ジカは「こんなチャンスはまたない。早くソリナのところに行って来い」とけしかける。土砂降りの中自転車をこいでジェロームの家に向うルチ。ジェロームとともに赤い車に乗り込み出発しようとした所で家の中にルチを見たソリナは、ジェロームの制止を振り払い雨の中をルチのもとへと走って行く。抱き合うルチとソリナを中心にカメラがぐるぐるとまわる。



第3話「大佐とジークフリード」
警察での退官式。大佐が演説をしている。横にはオランダから視察に来たという官僚がいる。

娘の結婚式の当日。逃げた花婿を追う大佐。披露宴で出すワインの瓶をかっぱらって逃げた酔っぱらいの花婿を見つけののしると、花婿はワインの瓶をほうりだして大佐にあやまる。「助けて」というソリナの声が遠くでしている。

寝室で娘を外国の男に嫁がせることに文句を言う大佐。「私の娘は外国に嫁いで幸せになったわ」と言うのは妻ではなく、浮気相手の幼稚園の園長。

幼稚園ではオランダ人が養子を迎えようとして孤児を集めている。ひとりひとり前に出て自己紹介する孤児たち。唾を掛け合う悪ガキふたりがこっぴどく叱られている。

大佐のもとにジークフリードという男がやって来る。共産主義時代にルーマニアを亡命して当時大佐が捕まえ損ねた男。彼がドイツで面倒を見ていた亡命者のニクが死んだことを親族に伝えに来たのだという。ニクが亡命したときに逃げ損なったのがルチ。「自分が死んだらルチに渡して欲しいものがある」というニクの遺言で、ジークフリードが持って来たスーツケースの中身は黒人のダッチワイフ。ダッチワイフを膨らませて浮き袋にして川を渡り亡命した思い出の大切な品らしい。

幼稚園ではオランダ人の養子が決定した模様。「ガブリエル君はもう二度と唾を吐かないと約束してくれました」決まったのは唾を吐き合っていた悪ガキのひとりだった。呼び出されて前に出ようとするガブリエルに唾を吐くもうひとりの悪ガキは斜視。

イタリア人との見合いの当日、ミハイルは大佐が預かったスーツケースの中身を見てしまう。その直後黒人のルイジがやってきて、ミハイルはダブルショック。それでも一見なごやかに晩餐は進む。

ジークフリードと大佐はルチを夜のカフェに呼び出してニクの死を伝えるが、存外ルチはそっけない。自分がトイレに行っている隙にひとりで逃げたニクなど知ったことかと怒っている。「それに僕らのダッチワイフは白人だったよ」との台詞に劇場の後ろの方で爆笑する声は白人たちのものだったのかな?
明日ドイツに帰るというジークフリードに、黒人との結婚が決まっている娘のことを相談する大佐。「気心しれた君にだったら娘を預けてもいいのになあ」と。

おばさんの部屋でジカの母親を介抱している大佐とジークフリード。そこへルチが帰って来る。あらためて「ニクのことを伝えに来た」とおばさんに言う大佐たち。喜びに輝くおばさんの目に、とっさに「ニクはドイツで成功して忙しく働いていて連絡する暇もないのだ」と言うルチ。
大佐が部屋を貸してくれることになったとおばさんに告げると「こんなチャンスはまたない。早くソリナのところに行って来い」とジカにけしかけられ、土砂降りの中自転車をこいでジェロームの家に向うルチ。

土砂降りの中、ルイジが大佐の家を出てタクシーに乗ろうとしている。傘をさして隣に立つミハイルはしかし、彼と一緒に車には乗らずに家の中に戻る。彼女はこの国に残ることを決意したのか。

間一髪で間にあいソリナと抱き合うルチ。でも住む部屋が見つかったことを伝えると、やっぱりどうしても外国に行きたいソリナは結局ルチを置いて赤い車に戻り、ジェロームとともに去ってしまう。
occident1


翌朝。オランダ人に連れられてガブリエルが旅立とうとしている。ミハイルもジークフリードとともにドイツに旅立つ様子。彼女を見送りに来ているルチ。「お友達に最後のご挨拶をしましょう」と園長に言われて手前に歩いて来るガブリエル。相手は斜視の悪ガキ。奥ではルチに抱きつくミハイル。「さようならバヌツ君」と言い終わってすぐさっと後ろにガブリエルが身をのけぞらせた瞬間、急にぴたりと時間が止まり、あの「2000年になったら」が流れ出す。そして再び時間が動きだし、見事に唾をよけたガブリエルと車に乗り込んで去ってゆくミハイルにエンディングロールがかぶさってゆく。

(細かい間違いなどいっぱいあるかもしれません。見た方のご指摘をお待ちいたします)



Occident Trailer(Mobra Filmサイト) ←テレビバラエティのような予告編・・・
Preview "Occident"(YouTube) ←映画冒頭10分が見れます(英語字幕)
Noi in anul 2000(YouTube) ←エンディングテーマ(涙)


「君とボクの虹色の世界」~なにげなくみつけた音にぞ日はのぼる~

君とボクの虹色の世界5

2005年 ミランダ・ジュライ監督

ちなみに原題は「Me and You and Everyone We Know」。
何気なくこういう映画に出会えたときの幸せについて。


最近はあながち季節外れとも言えなくなって来た台風2号は、夜中にひそかな風で木立を揺らしはしたもののずいぶんあっさりと通り過ぎ、見ていない録画ビデオ映画を見る会会員の僕はといえば、昨日今日と1950年代のリチャード・フライシャーを二本ばかり見たりしてた。

1955年の「恐怖の土曜日」はタイトルで大いに期待したためか、あまりのつまらなさにがっかりしつつも終盤の農場での立ち回りには 後年の片鱗を見た気がし、1959年の「フォート・ブロックの決斗」は、弛緩した西部劇かと思いきや、冒頭で暴れ馬を見事に乗りこなし、やがて若くして牧場主となる野心に満ちた主人公やその周りの人々をきっちり描き、なかなか魅力的だった。 タイトルの「決斗」は泥にまみれての無様な殴り合いだってのもよかったな。


さて、今日は晩飯を食べた後BSでやっていたカンヌ映画祭がらみの映画を何気に見始めたらこれが面白くてきっちり最後まで見てしまった。 タイトルは「君とボクの虹色の世界」。
君とボクの虹色の世界4


残念なことにファースト・カットを見逃してしまったのだけれど、冒頭自分で自分の手に火をつける男。 ガソリンでもかけたのか、めらめら燃える手のアップ。
自分でやったくせに、必死で火を消そうと焦って庭の芝生に手を叩きつける男のロングショット。 緑の芝生と上下に動く小さなオレンジの炎が綺麗。
買物をすませて何気なく金魚のビニール袋を車の屋根に乗せてドアを開け、そのまま走り出す車を目撃する高齢者専用タクシーの運転手の女。
いつかは落ちてしまう揺れるビニール袋の中で、のんきに泳ぐ金魚のアップ。
急停車した反動でぽーんと飛んだ金魚の袋は、今度は前の車のトランクの上。
運転しながらそれを見て、気が気ではない彼女。
もうこのあたりですっかり魅せられて、この映画が好きになっている自分w
ほんとに「何気ない」ちょっとした日常の一齣たちがきらきらと輝く映画。

君とボクの虹色の世界1

うんちが大好きな年頃の幼児は、いたずらでネットのチャット・エッチをしながら、「同じうんちが君と僕の尻の穴を出たり入ったり…」なんて兄に打たせて「お前、すげえな!」と感心されたりする。当のチャットの相手もそのセンスに惚れてしまって(爆)とうとう公園で会うことになったりもする、くだらねーといえばくだらなさすぎる話が満載のこの映画を もしジャンルわけするんなら、ロマ・コメになるんだろうがそんなのはまあどうでもよく。
バスを待つ男から、朝日を昇らせる役目を幼児が引き継ぐラストシーンまで、いささかもダレることなく楽しめた。いい映画見たなー。
おもろい人間が一生懸命に生きている姿を見るのはほんまにおもろい。

2005年のサンダンスで審査員特別賞、カンヌでカメラドール賞を受賞したなんてことはともかくとしても、なかなかいいお尻だったヒロインを演じていたミランダ・ジュライがこの映画の監督だと知ってびっくり。
君とボクの虹色の世界3

しかもよく知らないけど、ウェイン・ワンやポール・オースターなどとのコラボなんかもしているマルチ・アーティストなんだそうな。 このままちゃんと映画監督になっちゃえばいいのに。
でもまあ、やっぱりそんなことはどうでもいい。

昔からブランド信仰厚い僕は、旧泰然とした作家主義で映画を見てしまうことが多い。そういえば飛び込みでレストランに入ることもなかなかできないし、ましてや飛び込みで映画を見るほどに金持ちでもなく。だから、こうして何気なく見た誰とも知らぬ映画が素敵だった時は、なんだかとっても嬉しくなる。
そして、作家主義からも映画史からも離れたところで映画の瑞々しさや躍動感を発見できる自分を知るとき、「まだ俺にも映画を見る資格があるのかもなー」なんて思えたりもするのであった。 なんつって。

「君とボクの虹色の世界」、また劇場でかかったらちゃんと見に行こう。
君とボクの虹色の世界2

)) < > (( forever. その意味は映画を見て知るべし♪



「つぐない」~純潔な神が焦がれたほの暗い水の底~

つぐない1

2007年 ジョー・ライト監督

キーラ・ナイトレイは胸がまったく全然ないけれど
キーラ・ナイトレイの背中には素敵なほくろがある
キーラ・ナイトレイのあごはしゃくれているけれど
キーラ・ナイトレイの唇には煙草がよく似合う
そして、キーラ・ナイトレイの見開かれた目のかたちは
艶やかにまくれあがったcuntにとてもよく似ているのだから
男が夜ごとそれを夢に見て、キスしたくなるのも無理はないだろう


古城のような大邸宅の模型が映し出されゆっくりカメラが引いていくと、その邸からは沢山の動物のミニチュアたちがあたかもノアの箱舟を目指しているかのように列をなしている。そして列の先にはひとりの白い服の少女がいて、こちらに背中を向けて一心不乱にタイプライターで文字を打っている。それがこの映画の神ともいうべき語りべ、13歳のブライオニー。
舞台は1935年のイギリス。ある夏の暑い日に、部屋にまぎれ込んだクマバチの羽音の唸りと、少女の打つタイプライターの音がすべての始まりを告げる。
ほどなくして「the end」の文字が打たれるやいなや、少女は紙の束をつかみ部屋を飛び出してまっすぐに廊下をずんずんと歩いて行く。
カメラはそんな少女を追うというよりは、廊下や扉のあちこちで幾重にも待ち構えていて、向ってくる少女の思い詰めた表情を真正面からズーム・インしてみせたり、行ってしまう小さな背中をズーム・アウトしてみたりと、細かいカットバックでとてもあわただしく奇妙な動きをするので、見ている方は映画冒頭からすっかり不安な気持ちにさせられてしまうのだった。


監督は長編第2作目となるイギリスの30代の若手監督、ジョー・ライト。
思えば前作の「プライドと偏見」の冒頭では、朝の散歩から帰って来たヒロインをワンショットで優雅なカメラが追ったものだったが、今作のこのスリリングな幕開けは一体どうしたことだろう。
「the end」と打たれたばかりの少女の処女作でもある戯曲は、誰の関心も得ることができぬまますぐに忘れ去られてしまう。そして心を痛めた少女の張りつめた青い目には、彼女がほのかな恋心を抱いていた使用人の若者ロビーと他ならぬ姉セシーリアとのエロティックなやりとりが飛び込んで来る。一度ならず二度、そして三度・・・。その度にエスカレートしていく猥雑な光景に少女は耐えきれず、その夜起こった事件に積極的に参加することで見事に復讐をとげることとなる。この映画を支配する、小さな神の当然の行いとして。
固く冷たい声で宣告される "I saw him, I saw him with my own eyes"。 その絶対的な審判により、いともたやすく引き裂かれてしまう恋人たち。その後転落して行く男の未来をも見据えるような、少女の氷のような恐ろしい目のクローズ・アップ。

つぐない4

13歳のブライオニーを演じたのはシアーシャ・ローナン。
彼女の青い瞳がなかったならば、この映画は成立しなかったに違いない。


時間を逆行させることも現実を捏造することも容易な恐るべき少女はしかし、いつしか過去の裁きを悔いるようになる。
前途を閉ざされ罰せられた恋人ロビーは失意のまま戦地へと連れ去られ、もうひとりの恋人セシーリアも家を出て傷病兵のナースとなる。彼らの運命をねじ曲げてしまったブライオニーもまた、姉と同じナースへの道を辿る。
色気とは無縁の18歳のブライオニーを演じるのはロモーラ・ガレイ。生真面目な青い瞳や廊下を直角に曲がる様などは、幼い頃そのままである。
病棟での彼女は、頭を撃たれ脳みそが露出したフランス軍の負傷兵にひととき甘い夢を見せたりもするのだが(赤いカーテンの奥から響くつたなくもせつないドビュッシー!)、あの遠い夏の日の自分の仕打ちを忘れることはできぬまま、思春期の心は暗く閉ざされている。
そのため映画も途端に現実味を失い、死と幻想の交錯した少女趣味へと突入して行くこととなってしまう。
激しい戦闘はおろか1人の敵兵すら出て来ない戦場で、なぜか傷つき死んで行く兵士たち。綺麗に並べられたうら若き修道女たちの甘美な死体。そして、中世の絵画のようなダンケルクの浜辺のモブ・シーン。

つぐない3

聖歌を歌う兵士や馬を射殺する兵士たちのおびただしい烏合の衆。たったひとりの少女が創り出した、このあまりにも非現実的な悪夢に感情移入することができぬまま、ジャン・ギャバンとミシェル・モルガンのラブシーンが映し出された巨大なスクリーンの前で衰弱したロビーはついに狂気に至る。不思議なことにスクリーンに彼の影が映ることはなく、逆に彼がスクリーンに照らされている。そう、これはやはりブライオニーの見た夢なのだ。


この恐るべき少女が創り出した世界に翻弄される恋人の片割れのセシーリアを演じたのは、「プライドと偏見」でも主演を張ったキーラ・ナイトレイ。前作以上に妖艶な彼女は水と戯れ、臆すことなく下着に陰毛を透かし、鮮やかな緑の絹のドレスを纏えばなまめかしく光る白い背中で挑発する。

つぐない5

つぐない6


小さな神の怒りを買いさえしなければ、我々は濡れたcuntにも似た彼女の扇情的なまなじりにもっともっと心を奪われていたに違いないのだが、そこは純潔と節度を第一とする清浄なる少女が君臨するイギリス映画。エロスは快楽的な風やおおらかな陽光に遊ぶことを許されるはずもなく、濁った水の底に淫靡に隠れひそむしかないのだろう。
思えば幼い頃のブライオニーが、想いを寄せるロビーの気を引くべく飛び込んだ小川のせせらぎの、なんと清らかだったことか。しかし、彼女は水と戯れる暇もなくあっという間にロビーに助け出されてしまう。対して姉のセシーリアが深く潜っていったプールや噴水や地下鉄の構内になだれ込んだ濁流の水たちは、すべて暗く淀んでいたはずだった。そして罰せられたロビーはといえば、水を与えられることもなく渇きに苦しみながら戦地を彷徨うのだ。


戦後に作家となったブライオニーは、テレビ・インタビューで年老いた姿を晒す。幼い頃からずっと贖罪の念のみを支えに生きて来た彼女の青い瞳には、もはやかつての強い光はない。
ヴァネッサ・レッドグレイヴ演じる老ブライオニーは訥々と、かつて自分が神として姉とその恋人を闇に葬り去ったことを告白する。彼女は最後の力を振り絞り、生涯をかけた「つぐない」を実行してみせる。
そして、映画は白く輝く美しい波の風景とともに終わりを告げることとなる。彼女が辿り着けなかった水の底のエロスへの、嫉妬にも似た深い憧憬の念をこめて。

つぐない2




関連text:
 「プライドと偏見」~くるんくるんと回る世界~

関連外部リンク:
 「つぐない」予告篇
 キーラ・ナイトレイ インタビュー動画(goo映画)


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