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東京散歩 赤坂~神保町~日本橋(「珈琲時光」後記)

日本橋1

期せずしてだらだらと東京を巡る一日。

梅雨のはずなのに朝からギラギラと太陽が照りつける今日は赤坂のテレビ局で働く友人と会うことになっているので久しぶりに午前中から起きて支度をする。
ずっと出かけていないので着るものに迷うが、どうやら真夏日になりそうなので一昨年北斎展に行ったときに買ってまだ一度も来ていなかった墨で描かれた花の絵のTシャツを着て行くことにした。
北斎Tシャツ


赤坂近辺はほとんど未知の場所なのでパソコンで鉄道アクセスや時間を調べて少し早めに家を出たのだが、久米川から乗った電車に急病人がいて手当のため10分ほど停車した。終点の西武新宿駅で降りて少し歩きJR新宿駅西口の銀行で金を降ろす。余裕があれば久しぶりに新宿をぶらつこうと思っていたけれど西武線が遅れたのでそのまま地下鉄丸ノ内線に乗る。転落防止のために電車のドアとは別にホームにもゲートが設置されている。ドアが開きホームのゲートも開いて丸ノ内線に乗車。地上にホームがある四谷駅で乗り換え。今度は南北線に乗るべくまた地下へ降りる。2駅先の溜池山王駅で下車。ぷしゅ~。ドアが開き、ホームのゲートが開く。

地下道の案内図を見てもテレビ局方面の出口表示がなかったので改札口の駅員に聞く。「ええ?それなら最寄駅は赤坂だね」と言われるがその駅が何線なのか、ここからどうやって行くのかの説明はなし。「ここから歩くならどうやって行くのでしょう」と食い下がると「・・・こっから歩くなら地上に出て外堀通りを右に行って山王下っていう交差点を左だね」とめちゃくちゃ早口で説明された。
うーん、これぞ東京の駅員。無愛想でぶっきらぼうで、自分の知っていることを知らないヨソ者らしき人間を邪険に扱う偏狭な態度。でも言葉が通じるかどうかもわからない外国人相手ともなればまったく態度が違ってくるのだろうから面白い。いま早口で説明されてまるで頭に入らなかった道順も正確なものではあるのだろう。やっぱり東京はこうでなくちゃな、と妙なところで納得をする。「ありがとうございました」とそそくさと会話を打ち切り地上へあがると、警備か交通整理をやっているお巡りさんがいたのでもう一度道を聞く。今度は割と親切に教えてもらえたので迷うこと無く約束の時間ぴったりに待ち合わせ場所のテレビ局正面玄関に到着。

目の前に新しいビルを建設中なせいなのかよくわからないけど、なんとなくうらぶれた感じがするロビーに座ってぼーっとする。このテレビ局も新社屋になってから結構経つのかな。正面入口なんだしもう少し華やかでもよさそうなものだけど、案外テレビ局の入口なんてものは楽屋口みたいなものかもなー。この受付に座ってる女の子たちっていくらもらってるんだろう、などとどうでもいいことを考えながら待っていると仕事を抜けた友人が来てくれた。受付で見学者用のIDパスをもらって自動改札みたいなゲートを抜けてエレベーターに乗り、上の方の階にあるレストランでお茶をする。
予備校の頃からかれこれ20年来のつきあいである友人は、ここで舞台美術のデザインをする仕事をしている。最近は忙しいようでなかなかゆっくり会う機会がなかったのだが、今回は仕事の合間を縫って時間を作ってくれた。互いの近況報告や京都で見た若冲の話、日本で唯一の宗教都市であるという天理の都市デザインのこと、「珈琲時光」の話などですぐに時間が過ぎてしまう。せっかくだからスタジオ見学でもしていけば、と勝手知ったる裏道小道を抜けていく友人の後についてバラエティやニュース番組のセットが組まれたスタジオを巡る。友人に挨拶をする大道具小道具のスタッフさんや休憩室で休む人たち。
規模は違うがなんだか大学のサークル部屋のように見えて来て面白い。「ここが俺の仕事場です」という友人に、東京のこの土地にしっかり根をおろしている安定感を感じた。
TBS


忙しい友人と別れふたたび赤坂の街へ。通りすがら「赤坂」の地下鉄駅がある。「なるほど確かにこれが最寄駅だ。千代田線なのねー」と溜池山王駅の駅員の言葉の正しさを確認しつつ、とりあえずは赤坂見附までぶらぶら歩く。昔から東京の街をあてもなく延々と歩くのは好きだけどなにしろ赤坂近辺はなじみがない。再開発された六本木に行く気もしないしどうしようかなー、と地下鉄の路線図を見ているとこの辺りはいろいろな路線の駅が近接しているようで、今いる赤坂見附駅から少し歩いたところにある永田町駅から半蔵門線に乗れば九段や神保町の方に行けることがわかった。少し腹も減って来たので前から行きたいと思っていたラーメン屋がある九段下へ向うことにした。
九段下駅の自動改札を出るときに入れた切符がまた出て来た。この駅は半蔵門線と東西線が接続しているのだが、それぞれの改札口が少し離れたところにあるので乗り換える人のために切符が戻る仕組みになっているらしい。僕はこの切符にもう用はないのだがなんとなく受け取って地上へ出ると午後四時ちょうど。この辺りで昔働いていたこともあり土地勘もあるのでなんとなく見当をつけてラーメン屋に向う。ほどなくして目的地であるラーメン屋に着くが、「三時~五時まで準備中」という貼紙がしてあって閉まっていた。仕方なく空き腹をかかえ神保町に足を向ける。

神保町交差点から水道橋へ伸びる白山通り沿いの古本屋や喫茶店が舞台となっている台湾映画「珈琲時光」を先日見たばかりだし、せっかくだから映画にも登場した天麩羅屋で腹を満たそうかなあと思った。天麩羅屋と言ってもこの辺りは学生街なので安い。近くには同じ系列のトンカツ屋や天丼屋もある。結局昔毎日のように昼に食べていた天丼屋で食べることにしたが、着いてみると午後四時で閉店だった。昔は夜まで開いていたのになあ。。
他に当てもないままに古本通りを歩き、昔よく行った店を覗いたりしてみる。しかし店に入っても古本を見る振りぐらいしかできず、なにかよそよそしい気分が抜けないままに腹は減る。
何本か新しいビルが建っただけいくつかの店が無くなりはしたものの、僕が毎日通っていた20年前とほとんど変わらないように見えるこの街を訪れる機会がある度に、なじみの天丼屋で天丼を食べ、お気に入りの古本屋を巡ってはノスタルジー気分を満喫したものだった。
しかし「珈琲時光」という映画で侯孝賢監督が見事に捏造してみせた柔らかい光に溢れる「東京」を見せられたばかりの今日の僕には、いつものように「変わることなき昔なじみの懐かしい街」を頭の中に作り上げることができなくなっていて、それどころかもうとっくにこの街の人間ではなくなっていることに気づかされるのであった。
だからといって背に腹は代えられるわけもなく、結局お茶の水の大学の学食でカツカレーを食べた。この大学の校舎は老朽化のため巨大な高層ビルとして建て直されてからもう10年ぐらい経つのだろうか。赤坂のテレビ局と同じくらいかな。
明大

学食のある17階までエレベーターで昇る。校舎がどうであろうが学食はどこの大学も一緒。まったりした空気の中学生たちがだべっている。ここは彼らの居場所。
そんな学生たちにまぎれてぼんやり外の景色を眺めながら食べたカツカレー410円はボンカレーの味がした。
明大2
17階のトイレからの眺め

とりあえず落ち着いて今度は古本屋ではなく大型書店をぶらぶらしてみたりする。時間の流れがまったりとした店内の雰囲気は相変わらずだが1階の奥にあった映画コーナーは4階に移っていて、置いてある本の量はかなーり減っていた。侯孝賢についての本なんかありもしない。
夜は仕事が終わった妻と日本橋にあるプラネタリウムに行く約束をしているので、もう一度九段下まで戻って東西線に乗ればいいだろう。そうすればさっき戻って来た切符が乗り換えでそのまま使えるじゃん、とそろそろ古本屋が閉まる時刻になってきた靖国通りを駿河台から九段下まで早足で一直線に戻る。帰宅する会社員で混み始めた九段下の東西線改札口でさっきの切符を入れると「ピンポーン」と音がなってゲートが閉まった。「あれ、半蔵門線からの乗り換えで出て来た切符なんですけどー」と告げると、室内の機械を確認した若い駅員に「この切符で3時54分に出られてますね。30分以上経っているので無効です」と言われた。当日限り有効にしてくれればいいのになあ。日本橋とは逆方向のこの駅まで歩いて来て、ここからまた初乗りの切符を買うのはなんかムカツク。でももう一度お茶の水の方まで戻るのも癪だよなあ…、と家から持って来たチラシであらためてプラネタリウムの場所を確認すると、最寄駅は日本橋駅ではなく三越前駅だった。路線図を見るとこの駅から半蔵門線1本で行けるらしいので、結局切符を買ってもう一度半蔵門線に乗る。

2006年12月15日~2007年6月30日の期間限定で開催されている日本橋のプラネタリウム。チラシによれば約500万個の星を投影できる世界最高峰のプロジェクターを使っているとのことで2つのプログラムを1時間ごとに交互に上映するらしい。
とりあえずはプラネタリウムを横目で眺めつつ中央通りを神田方面へ歩き、日本橋三丁目の交差点で仕事帰りの妻と合流してまた三越前へ戻る。
プラネタリウム外
奥がプラネタリウムのドーム入口

6月いっぱいで終わってしまうからかチケット売り場には行列ができていた。7時からのプログラムは既にほぼ満席とのことなので8時と9時の回のチケットを買う。人気あるんだねー。

プラネタリウムが終わる10時頃には店が閉まってしまうから先に晩ご飯を食べることにした。また神田方面へ歩き、妻が仕事帰りにときどき上司と食べるという中国人がやっている中華料理屋に入る。日本橋で働いている人でなければ入らないであろう小さくてそっけない店構え。壁には古ぼけた2メートルほどの巨大な扇が飾ってある。常連客らしい年輩のサラリーマンが5人ほどいて、店の主人と話しながらビールを飲んでいる。「おすすめ」と書いてあったタンメンを頼む。味はまあまあなんだけど夕方食べたカツカレーが効いていてなかなかに苦しい。レジには液晶のディスプレイが置いてあって中国元かなにかの為替チャートが表示されていた。「ちょっと味が落ちたかな」と言う妻もこの店も、この街にしっかり根を下ろしているんだな。

中央通りをプラネタリウムまで戻る。チケットを切って仮設の小さなドームの中に入ると、思っていたよりも遥かに小さくて天井も低い。場内の真ん中には呼び物のプロジェクターが設置されている。
メガスター

上映が始まれば天井の低さは感じなくなるのだろうか。8時の回の席は結構前の方。背もたれを倒すも思ったより倒れず、天井を見上げるためには体を前にずり降ろさなくてはならないがその体勢は結構腰に来そうな感じ。一番前の席なんかかなり壁に接近しているけどちゃんと見えるのかなあ。なにしろ僕は子供の頃にプラネタリウムに行った記憶がないのでこれが普通なのかひどいのかよくわからないまま、しばらくすると上映が始まった。
この回のプログラムは25分。プラネタリウムクリエイターなる人のナレーションが入りながら世界各地から見える夜空の星を見せるプログラム。500万個の星空はやはりとても低い。
プラネタリウムの映像というものは投影された星空を線で結び、これが何々座という解説が入る科学的なものなのだろうと勝手に思い込んでいたが、そんな親切な解説などないままに、どの星がどの星座かなーと思う暇もないままにどんどんすいすい動いて行ってしまう。北の国の空ではいきなりCGのオーロラが出て来たり星が見えているまま急に吹雪になってみたりとプラネタリウムクリエイターのさまざまな演出は続き、あっという間に25分間のプログラムは終了した。
出口向う途中他の客の顔を見るとみな憮然とした表情なのが面白い。確かにこのプログラムで800円は高いよなあ。9時から始まる45分間のプログラムは大丈夫かな。
プラネタリウムのドームの外の裏側にある喫煙所で一服。喫煙所の横はネットに囲まれたフットサル場になっている。ゲームしているのは日本橋に勤める会社員たちだろうか。大手不動産所有のこの敷地には、プラネタリウムのドームとフットサル場とコンビニの入った2階建ての建物とHD DVDが見れるカフェがあるのだが、プラネタリウムを閉鎖した後は全部取り壊しちゃうのかな。そして跡にはまた、巨大なビルが建つのだろうか。

とりあえず近くにあったコーヒーチェーン店に入ってアイスオレなど飲みながら、自分が思っていたのとは全然違ったプラネタリウムの文句を垂れつつ9時まで時間をつぶす。
9時の回はさっきよりは少し後ろのほぼ真ん中の席。なにしろ狭くて天井が低いので席によってもかなり見え方が違うのだ。それでも椅子はやっぱり倒れ方が足りない。
今度のプログラムは二部構成になっていて、第一部は500万個の星をバックに大岡信が監修した一般公募と詩人・文化人による「宇宙連詩」なるものが字幕で表示され、声優がそれを朗読するというもの。第二部はアメリカ自然史博物館で好評を博したというプログラムで、太陽系から飛び出て銀河宇宙を旅するというものだった。
第一部のひどさは言うまでもない。というかひどすぎ。第二部は内容的にはまあまあだったんだけど、大きな惑星が映し出されると小さな天井のせいで楕円形に歪んでしまったりして、やっぱりなかなか悲しかった。
やっぱりこういうプログラムはアミューズメントスポットにあるバーチャルシアターなんかで見た方がいいんだろうなー。
期待はずれの韓国映画を見てしまい、収まりがつかなくなって懲りずにそのまま立て続けに何本も韓国映画ばかりを見てしまったときと同じ気分になり外へ出た。今度はどこのプラネタリウムに行こう。うー、欲求不満!

中央通りをぶらぶら歩いて東西線の日本橋駅へ向う。高速道路の下にある日本橋が今風にライトアップされていた。昼間に見るのとはまた違う感じ。「高速道路を地下に埋める計画があるんだってよ」と妻が言う。
日本橋3

日本橋5

お江戸日本橋の上に高速道路を造り、何本もの高層ビルを建設して行った高度経済成長期。お台場などの臨海副都心を造ったバブル期を経て、六本木ミッドタウンや新丸ビルなどのガラス張りのビルを次々に造っている今。どこかのゼネコンの偉い人が「東京から高層クレーンがなくなったらおしまいだ」と言ったそうだが、きっとその人も確かに現代の東京に根を下ろしているのだろう。そして、年月を経てようやく根が生えだしたこの「高速道路の下の日本橋」というこの東京の風景もまた変わっていくらしい。

コレド日本橋の向かい側の小さな雑居ビルの地下鉄入口から階段を降りて東西線に乗る。
高田馬場駅で乗り換えた西武新宿線は平日夜10時過ぎなのに満員電車。久米川駅で降りて午前1時まで開いている駅前のスーパーでミネラルウォーターなどを買う。
帰り道で見上げた夜空には、星が2つばかり輝いていた今日の一日の散歩の終わり。


きっぷ


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「珈琲時光」

珈琲時光1

侯孝賢監督 2003年


劇場のスクリーンを撮影しているような画面で、富士山をバックにしたちょっと古めの「松竹映画」の文字がまず浮き上がる。そのあと「小津安二郎百年誕辰紀念」の文字。見る側からすればそんなことはまあどうでもよくて、夕暮れの光の中都電がすうっと行き過ぎるファーストシーン。
本当に久しぶりに侯孝賢の映画を見た。

だいぶ前に自宅に友人たちが来たときに「何か映画でも見よう」ということになって侯孝賢の「童年往事」かなにかを見始めたら、映画も中盤にさしかかる頃にはみんなすやすやと眠ってしまっていた。風にそよぐ大きな木の下で遊ぶ子供たちをロングショットでゆったりと捉える侯孝賢の映画を見るにはやっぱりテレビの画面はあまりに小さすぎるんだろうなあ、とそのときに思った。
果たして映画は淡々と進む。旅行から帰ってきてアパートの自分の部屋で洗濯物を干しながら、携帯電話でこのあいだ見た不思議でちょっと怖い夢について友達に語る長いワンカット。ほのかなセピア色がかった逆光に薄い布のスカートが透けたりもするこの映画冒頭のシーンから、すーっと映画の中の時間と場所に吸い込まれていく。
「あれ?そういえばずっと日本語じゃん」というくらい僕には予備知識が全然ないのだが、この映画は全編日本で撮影された日本の俳優が日本語のみをしゃべる台湾映画なのだった。

都電荒川線、山手線、中央線…これでもかというくらい電車が走る。お茶の水、有楽町、高円寺となじみの町が舞台になっている。でもこれは明らかに自分の知っている東京ではなくて、どちらかと言えば昔見た「童年往事」や「悲情城市」に繋がる風景だという不思議。
感覚的に自分が面白いと思うものを撮り、半ば即興的に物語をまとめたソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」の東京もどこか見知らぬアジアのネオン街だったけれど、あれはもろに西洋人ソフィアが見た「翻訳不可能なアジアの一都市」という観光目線の映画だったのだからそれも無理はない。台湾人の侯孝賢はそれよりもずっと自然に東京の店や電車の中へするりと入り込んでいくのだが、やはりそこは僕の知る東京によく似た別のどこか。そして今までの侯孝賢の映画がそうであったように、この街にも日常の音や光や風たちがごく普通に息づいている。
侯孝賢の新作がかかるたびに劇場に足を運んでいた10余年前、映画を見終わって劇場の外に出ると、見慣れているはずの街が色鮮やかに輝いていてどこか別の場所に来てしまったような気がしたものだが、もしこの「珈琲時光」を劇場で見ていたら一体どんなことになっていたのだろう。

少し遠目に据えられたカメラは固定されているようで、そんなカメラにおかまいなく(は、もちろんないのだろうが)人物が切り取られた四角い構図の中と外を自由に往き来するとき、その動きに合わせてふっとカメラも動いたりまた戻ったり。顔へのクローズアップもほとんどなくてエンディングロールを見て初めて萩原聖人や余貴美子が出ていたことに気づくのはやはりテレビの画面が小さいからなのか。それでも小林稔侍らしき人物がなにやら「演技」を始めようとした途端にすうっとカメラが逃げてしまうのがわかったり。
主人公の陽子とそれを取り巻く人々の日々。電車に乗り何処かへ行き人と話し、食べ、眠り。ちょっと遠まきからそんな彼らを見つめ同じ時間を共有しているうちに、彼らの関心ごとにも興味津々となっている自分に気づくとき、なんだか人の生活を覗き見しているような居心地の悪い気分になってしまったり。喫茶店の隣の席の客の話に耳がそばだってしまうように? そしてまた電車がごうごうと走る。
有楽町かどこかの喫茶店のマスターが銀座の古地図を見せられて、「ここは今はどうなっているんでしょう」と尋ねられるシーンがある。カウンター越しに地図を見ながらなんかごにょごにょ答えようとしつつ「字が細かくってよく見えないんだよね…」と小さな声で素早く独り言のように口走りながら指をこするマスターがとても愛らしく、そんな人々の瑣細な仕草を逃さず映し出すことのみがこの映画を成立させているのかもしれない。
日々のなかで浮かんでは消えていく一瞬一瞬の小さなきらめきが、丹念に積み重ねられて静かな緊張感をも孕みつつ、時は光って流れゆく。

なにひとつ解決も破綻もしないままに淡い光の中でコーヒーが飲まれ肉じゃがらしきものが食べられ電車が並走したり交差したり。そうやって一切の説明的な饒舌さからきっちり逃げ切ったこの映画のラストシーンは、CMでも使われたことがあるお茶の水の中央線と丸の内線の立体交差なのだが、よくもこれだけ電車が同時に走るというほどに中央線と総武線が分流していく下を丸ノ内線が往き過ぎまた中央線がやってくる。「うーむ。エンドレス」と、思わずぶっと吹き出したところで画面は暗転してエンディングロール。
「そうか主人公は一青窈だったんだ。いい顔してたな。このエンディングテーマも彼女なんだなあ」などと思いながら見ている途中から突然「ううっ」と声をあげて泣き出してしまったのは、エンディングテーマに感動したからではもちろんなく、嗚咽している自分自身にひどく当惑した。
クリント・イーストウッドの「許されざる者」を見たときも似たようなことがあったけど、見ているときは別になんともなかったはずなのに映画が終わった途端に急に吹き出てくる涙は本当に困る。「許されざる者」で泣いたというのならまだ自分に都合の良い適当な言訳もできるのだろうが、この映画でなぜこれだけ涙が止まらなくなってしまったのか、自分でもわけがわからないのだから始末に負えない。でもこれはやはり「許されざる者」を見終わったときに急にこみあげて来たのと同じ感じ。違っていたのは今回は自宅だったからエンディングロールが終わる前までに慌てて涙を乾かす努力をしなくてもいいってことぐらいか…
少ししてようやく落ち着いてからやっぱり理由が知りたくなってネットを見たりしてみても当然ながらどこにも答などはありもしなくて、「そういえば、これが侯孝賢の映画だったっけ…」とかぶつぶつ言いながらただ漠然と「恋恋風塵」や「憂鬱な楽園」を見たときのことなんかを思い出したりするしかないのであった。
ああ、やっぱり次からは侯孝賢の新作は劇場でちゃんと見よう。


珈琲時光2


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「永遠の片想い」

永遠の片想い

イ・ハン監督 2003年


前回「青春漫画~僕らの恋愛シナリオ~」の感想を書きながらネットでいろいろ調べていたら、「監督はラブ・ストーリーの巨匠、『永遠の片想い』のイ・ハン」という紹介文を目にした。
でもよく見てみると「永遠の片想い」はイ・ハンの初監督作品で「青春漫画~僕らの恋愛シナリオ~」は監督第2作目。まだ30代だという新人監督を捕まえて「巨匠」とは。
試しに「ラブ・ストーリーの巨匠、『永遠の片想い』のイ・ハン」で検索をしてみたら出るわ出るわ。公式サイトの文章をそのまま載せてるのかどこかの映画サイトの紹介文をみんなが使い回してるのか知らないけど、ちょっといいかげんすぎないか?w それだけ「永遠の片想い」って作品が女性の心を掴む恋愛映画だったってことなのかねえ、と妙な形でそのデビュー作の名前を覚えてしまったら、翌日にその映画をテレビでやるんだもの、もうこれは罠としかいいようがない。。

きっとまたベタなメロドラマなんだろうと思いながら見始めるとなんと吹き替え。しかもテレビ神奈川だったのでローカルなCMが途中でばんばん入る。本編がどのくらいカットされているのかもわからないというかなりの悪条件。
それでも「いい映画だったなー」と思えたのは、もしかして韓国映画に目を慣らされてしまったせいなのかもしれないけれど、「永遠の片想い」にはやはり「青春漫画~僕らの恋愛シナリオ~」と同じパワーが溢れていたはずだ。やっぱり映画はこうでなくてはいけないと感じさせるなにかがイ・ハン監督の作品にはある。いい監督を知ったな。

ボーイ・ミーツ・ガールズ。この映画では普通の大学生が二人の少女と出会い、ひと夏を一緒に過ごす物語。メロドラマなので別れがあってそのまま永遠の片想いとなる。ベタだけど読めそうで読めない展開。見事に騙されたりするのも気持ちいい。手紙やカメラ、壁掛け時計などの小道具の使い方も巧い。嫌なあざとさや饒舌さもなくて話にすっと入り込める演出もよかったかな。
愁眉だったのが少女役のひとり、イ・ウンジュ。冒頭での登場シーンからずっとほかのキャラがかすむほどの生々しい存在感。イ・ウンジュを見るためだけにこの映画を見てもいいくらい。いい女優も知ったなあ、と思ったら一昨年前に自殺してしまったそうだ。
すっっっごく残念。。。

こうして見ると韓国にはいい俳優が多いのかもしれない。映画の出来に関わらず「オールド・ボーイ」のチェ・ミンシク、「子猫をお願い」のベ・ドゥナ、「美術館の隣の動物園」のシム・ウナ、「青春漫画」のクォン・サンウ。男女関わらずみんなとてもいい顔をしていたもんな。

ひと頃の韓流ブームは60~70年代の日本映画が持っていたベタでストレートな熱血モノや純愛モノへのノスタルジーだろうと思っていたし、確かに何本かの韓国映画を見てそういう部分の過剰さにはうんざりさせられもした。イ・ハン監督の「永遠の片想い」や「青春漫画」もそういう韓国映画のど真ん中だからこそ話題になりヒットもするのだろうが、これらの映画を「韓流」の文脈の中だけで語るにはあまりにもったいない気がする。
事実ここ数日見た韓国映画についてネットで検索してみても、ヒットするのは所謂「韓流」系のブログばかりで、普通の映画評のサイトはほとんどなかったし。
韓国の俳優たちが未だに「韓流スター」としてしか認知されないならば、韓国映画の持つ本来のよさはますます埋もれてしまうのかもしれないし、「ベタベタな韓流」ではない「子猫をお願い」のような映画こそが素晴らしい、なんていう変な「誤解」にもなりかねないよなーと余計な心配をしてしまいたくもなる。

どんなジャンルにも「いいものもあれば、わるいものもある」のは当然なのだろうが、なかなかにジャンルとそれを取り巻く人々の壁というものは厚い。そんな壁など関係なく、より多くの人にイ・ハン監督のエネルギーやイ・ウンジュの素晴らしさを知ってもらえたら、なんてことを願うのはテレビでCM入りの吹き替え版を見たヤツの言うことじゃない、かw



「ダークマン」

ダークマン

サム・ライミ監督 1990年

ここ数日の韓国映画漬けから脱出しようと思ってハリウッド映画に手を伸ばしてみたが、ここでハズスと悲しいので手堅くサム・ライミの未見の映画w

この監督は今や「スパイダーマン」シリーズで超有名になってしまったけど、元々は1983年に「死霊のはらわた」でデビューした人だし、そのカルト風味は「スパイダーマン」シリーズにおいても健在。
「ダークマン」はサム・ライミ監督の第4作目。ベタな名前の通り一応はダーク・ヒーローものだけど、アメコミが元になっているわけではなくて原作はサム・ライミ本人。ジャンル的にはアクション・ホラーとかB級カルトものということらしいけど、特に怖くもグロくもないしゲラゲラ笑えるわけでもない。 amazonの商品説明では「初めてメジャー・スタジオで手がけたバイオSFアクション映画」ということになっている。

人工皮膚を研究している科学者ペイトン(リーアム・ニーソン)は、恋人の女弁護士が手掛けている賄賂事件がらみでマフィアに襲われ全身に重度の火傷を負う。収容された病院では実験動物扱いを受け、痛覚を取り除くためにに神経を切られるがアドレナリンが増大する副作用で感情を抑えることが難しくなる。
その結果、怒りによって超人的な力を発揮できるようになったペイトンは病院を脱走して廃倉庫にこもり、光に当たると99分で溶けてしまう未完成の人工皮膚を装着しては他人になりすまし、マフィアに復讐を挑むのだった…

要はダークマンとか言っても怒ってぶち切れるときに少し強くなるだけで、それほど凄いわけではない。あとは時間制限付きの人工皮膚で変装できるだけw にしても、一体どうやって廃倉庫に人工皮膚を作り出す機材を集めたのかさっぱりわからぬままどんどん物語は進行していく。

マフィアとの対決の場面では、ビルの谷間を飛ぶヘリコプターからロープで宙づりにされ、建設中の高層ビルの鉄骨の上での決闘シーンでは、フックのついたクレーンのロープにターザンのようにぶらさがり敵を蹴散らす。なーるほど、これでスパイダーマンを撮ることになったのねー、と誰もがうなずくシーンw
てか、このシーン見てて「そうかスパーダーマンってのは現代版ターザンだったんだ」って今更ながらに気がついたのは間抜けな僕だけ?(汗

火傷を負っていない頃のペイトンの顔の皮膚を被って恋人と再会し、遊園地でデートするシーンがある。的当てのゲームでちゃんと瓶を倒したのに「線を踏み出てたからダメ」といじわるな店員に言われ景品がもらえない。ペイトンの皮を被ったダークマンの真正面からのバストショット。背景は遊園地の乗り物なんだけど、この背景が紙を破ったようにビリビリと裂けていく。そう、ダークマンがブチ切れたのだ(人はこういう見せ方をライミ節と呼ぶらしい)。「そのピンクの象をよこせ!」と暴れだし店を壊しちゃう。

残忍なマフィアのボス(ラリー・ドレイク)は葉巻をカットするスライサーみたいな道具を使って笑いながら人の指を切るというベタな悪役だし、ほんとにサム・ライミって表現がクラッシック。というかアナクロ?
スパイダーマンにしてもそうだけど、途中でときどき50年代のハリウッド映画を見ている錯覚に陥ってしまうかんじは嫌いじゃないし、ちょっと嬉しかったりもする。ただ「ダークマン」では全体にこじんまりまとまっちゃってるのがちょっと残念。予算とか特撮技術のせいと言うよりは「ヒットする映画を作りたい」と望んだ結果なんだろう。

もくろみ通りアメリカで大ヒットとなった「ダークマン」以降のサム・ライミは、シャロン・ストーン主演の西部劇「クイック&デッド」や雪の田舎町で起きる渋い犯罪劇「シンプル・プラン」、ケビン・コスナー演じる大リーガーのラブストーリー「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」などの監督作品を経て、ようやく予算を気にせずに自分の好きなことが思う存分出来る大作映画「スパイダーマン」に至るわけだけど、個人的には「シンプル・プラン」や「ギフト」なんかの緊張感あふれるサスペンスが好きなんだよなー。
もうああいうのは撮ってくれないのかなー。

社会悪と戦うというにはあまりに個人的な復讐が終わって、ダークマンはまた人工皮膚を被って見知らぬものとなり雑踏に消える。「どこにもいて、どこにもいない。だれでもあって、だれでもない。俺をダークマンと呼んでくれ」という捨て台詞とともに。。

「青春漫画~僕らの恋愛シナリオ~」

青春漫画

凝りもせずまたしてもなぜか韓国映画。
ほんとに呪われているのかも?(爆

2006年公開のラブコメディ。
ベタなタイトルに逆にほのかな期待を抱きつつ…

喧嘩ばかりしている幼なじみのラブコメ。
うわー、これってなんだかあだち充の世界かも。
和也のいないタッチだな、これは・・・と思いながら見ていくと、和也がいないので不幸は直接、タッチならば達也にあたる主人公に降り掛かってしまった。お涙頂戴的なベッタベタな展開の後半を経て当然のハッピィエンド。うーむ、韓国!

わかりやすいストーリー、ベタな展開、セリフで全部語ろうとする脚本…
ここしばらくなぜかずっと韓国映画を見てきたけれど、今回の映画もまったく韓国映画の王道一直線だった。
ところが、である。今まで見てきた韓国映画の中でこの映画が一番映画らしい映画だったというこの不思議。
なまなましい現実感ってことなら「子猫をお願い」が一番だし、それこそが僕が映画において一番大事だと思っているもののはずなのに。「青春漫画」のどこにそんななまなましさがあったろうか。
確かに見せ方は巧いしテンポもいい。でもそれは「オールド・ボーイ」でも感じたことだし、ストーリー的には「オールド・ボーイ」の方がきっと面白い。でも既述の通り「オールド・ボーイ」は映画として見られなかったのだし、「子猫をお願い」は端々に映画を感じれたけどやっぱりなにかが物足りなかった。ではこの「青春漫画」はなぜ映画として見ることができてしまったのか。

子供の頃からジャッキー・チェンに憧れているテコンドー科(!)の大学生ジファンはスタントマンのアルバイトをしている。同じ大学に通うダルレはジファンの子供の頃からの幼なじみ。ふたりは今でも喧嘩ばかりしているように見えて兄弟のように仲がいい。女優を目指すダルレは緊張症で何度もオーディションを落ちているが夢をあきらめることはない。やがてダルレには恋人ができ、ジファンも別の彼女とつきあい始める。二人の友情と夢の行方はどうなっていくのか・・・

なんてストーリーを追いかけるまでもなく、もう映画の始めの方で結末は読めてしまう。読める展開とほんわかとしたムードは「美術館の隣の動物園」とまあ同じ。格別「青春漫画」の演出がいいというわけでもないんだけど、「おっ!?」と思ったのは映画の始めの方に出てくるアクションシーン。もちろん単に激しいアクションってことなら「オールド・ボーイ」のワイヤーアクションが一番すごいんだろうけどねーw

主人公のジファンがアルバイトで、戦隊もののヒーロー役のスタントを演るシーンがある。スタントの出番前控え室で着替えをしていると、体にぴったりした衣装を着けた女の子が入ってきて、ジファンが股間を押さえて立往生するというコミカルな場面の後に一転、細かいカット割りでかなり気合いの入ったアクション撮影の場面を「どうだー!」とばかりに見せつける。でもこれがちっとも嫌味じゃない。それどころか、いきなりびしっと気合が入った画面に鳥肌が立っちゃった。

でも別にこれは「緩急つけた演出の巧さ」という話ではない。
ここ数日見てきた「オールド・ボーイ」「子猫をお願い」「美術館の隣の動物園」といった韓国映画に欠けていて「青春漫画」にはあったもの、それは不意に突然画面から湧きあがる爆発するようなエネルギーだったのだっ!
復讐に燃え、グロテスクなまでに激しいアクションを展開する「オールド・ボーイ」はただただ冗漫なだけだったし、少女たちの自立と旅立ちを描く「子猫をお願い」は惜しいかな雰囲気だけで終わってしまっていた。細かい描写に優れた「美術館の隣の動物園」は結局主役の女の子の愛らしさのみの映画だったけれど、「青春漫画」は、なんというか初期の侯孝賢 (ホウ・シャオシェン)の青春映画にも通じるような、画面にみなぎる「力」がそこかしこに溢れていたのだった。これさえあればベタなストーリーも、セピア色の子供の頃のかわいい思い出のシーンも、もうすべてがプラスに機能し始める。

爆発的なエネルギーは、なにもアクションシーンだけに限ったことではない。誰も入りこむ余地がないふたりのののしりあいの喧嘩でもいいし、映画後半で不幸を背負い行方をくらましたジファンが、ひとりホテルかどこかの一室でダルレからもらったビデオレター(内容はごくごくわかりやすいお涙頂戴的なものなのだが)を見ながら号泣する顔のアップのシーンでもいい。役者がいいのか監督がいいのか編集がいいのか、見てる方としてはそんなことはどうでもいいのであって、とにかくこの映画には、今まで僕が見た韓国映画にはなかった力がある。ただそれだけw。そして南海キャンディーズのやまちゃんみたいなマッシュルームカットのジファンも、ちょっと老け顔にも見えるダルレも、映画を見終わる頃にはとても愛らしく見えてしまうのだったw

もういいかげん韓国映画を見るのは止めよう、と思っていた矢先にこの映画を見ることができて本当によかったと思う。

スタント



「美術館の隣の動物園」


美術館の隣の動物園

うーん。いけません。なぜだかずっと韓国映画漬けになっている。
今回の映画は1998年の作品。日本のテレビドラマにもありそうな軽いタッチのラブコメディ。

でもちょっと昔の映画だからか「オールド・ボーイ」や「子猫をお願い」みたいなイヤな感じの画面合成はなくて、肩の力が抜けた感じはまあまあ好感触。

ひょんなことから同棲することになった恋愛感情のない男女。ずぼらで女っけがまるでないくせにロマンチックな夢を見るのが好きな女と、兵役休暇で戻ってきたら恋人が他の男と婚約していて大打撃な、いちいち細かいくせに偉そうな男。
最後はふたりが結ばれるのがわかっているストーリーだし、特に衝撃的なことも起こらないままだし、平板なかんじは否めないけど、主演のふたりは自然な感じでまあ悪くないし、なんとなく最後まで見てしまった。

きっとこの映画も良質な韓国映画ってことになるんだろうか。
雨あがりに傘を差しておけば傘が乾くだろ、という男にしぶしぶ傘をひろげる女。もっとくるくる回せと言われて回した傘に夕暮れの光が透ける。
ふたりがお互いを意識しだす辺りから微妙な緊張感が出てきて、ちょっと面白くなってきたかなと思ったらあっという間にハッピーエンディング。

「子猫をお願い」ほど匂いや温度は伝わってこないけど、ちょっとした部分部分は悪くないかんじ。調べてみたらやっぱり女性の監督だそうな。
ストーリー的には弱いけど感覚的なところに優れているってところは「子猫をお願い」と同じだもんな。
韓国ドラマ好きの人にはぐっとくる作品なのかもだけど、むーやっぱりどうしても物足りないっ!

ここのところずーっといまひとつ食い足りない映画ばかり見ているから、もっと映画らしい映画が見たくなって余計ドツボにはまるんだよな、きっと…
そろそろ一旦韓国映画から離れてみるべきか。


「子猫をお願い」


子猫をお願い

気象庁が梅雨入りを宣言した翌日、予報が外れて目が痛いほどの太陽ギラギラの暑い日に、寒い冬の韓国映画を見た。

高校時代に仲良しだった5人の女の子。二十歳になった彼女らひとりひとりが、家族を離れ社会と向きあっていこうとする様を等身大の目線で描き出した青春映画の佳作だったよ。

公開当時に見た友人も含めてなかなか評判もよく、ずっと見たいと思っていた韓国映画。なのにどこをどう勘違いしたのかずっと「子猫を探して」というタイトルだと思い込んでいた。とんでもない間違いだ。偶然に拾われた子猫は急にいなくなることもなく、自分たちのことで精一杯な5人の女の子の間をたらい回しにされるんだし、自分の道を見つけようとする彼女たちにとって気まぐれに拾った猫は愛玩の対象ですらなく、そんなことはおかまいなしに子猫はいつの間にかどんどん大きくなっていくんだから。いや、当の子猫自体はめっちゃくちゃかわいく撮られてるんだけどね。

タイトルにもなっている子猫よりも、彼女たちの間ではるかに比重が大きいのは携帯電話。
というか、もしかして携帯電話会社とのタイアップなの?、と思わせるほど全面に押し出されていた。メールを打つシーンでは電光掲示板のようにその文字が流れるし同時通話の分割画面は後でDoCoMoかどこかがCMでパクったような…
高校の頃いつも同じ時間と場所で一緒に遊んでいた彼女たちは社会に出てからは携帯電話で連絡を取り合い、ときどきは昔のように集まって遊んだりもする。でも宴が終わればまたそれぞれ自分の問題と向き合う生活に戻される。そしてまた携帯・・・。でもだからといって「わたしたちはなればなれになっても携帯があればいつでも繋がれるからひとりだって大丈夫」的な安直さはない。部分的に取り出せばCMにも見えちゃいそうな映像なくせに、携帯電話特有のすれ違いとか気まずさなどがリアルに描けていた気がする。

ネットを見ていたらこの映画の感想でなかなか面白いものがあった。
いわく「猫は韓国では不吉の象徴で(これは映画の中でも語られている)もらわれた先々の家族が次々に崩壊していく」そして「あらかじめ繋がれてしまっている有線電話を家族に例えるなら、オンオフが自由で排他的ともいえる携帯電話は孤独の象徴」といったかんじのちょっとイコロジックなものだけど、なかなか読み応えがあったので。→http://kermit.pos.to/film/040626.html

優れた映画は、おそらく撮る側はそれほど意識していないままにその土地の慣習や温度や匂いといった、そこに暮らす人々にとっては当たり前すぎて気にもならないだろう風土までを映し出していることがある。一番端的なのは食べ物だったりするんだけど、この映画の場合は例えば丸い餃子だろうか。
ドヤ街に住む友達を訪ねた女の子が、おばあさんに半ば無理矢理勧められ口に詰め込む冷たい餃子。「遊んでるのは姉さんだけだろ」と弟に言われて父親のために市場に買いに行ったついでにむしゃむしゃほおばる湯気のたつ餃子。思わず晩飯に餃子を作ってしまったんだけど、韓国の餃子は日本のニラ饅頭みたいなかんじ。
本当に日本とよく似ているのになにかが違う韓国の町での暮らしが手に取るように伝わってくる。地下鉄、オフィス、家族のいるリビング、ディスコ(クラブというよりは)、サウナ屋、ドヤ街・・・そのどれもが女の子たちの生活を通してなまなましい。
きっとそれは5人の女の子やその周りの人々がみんなちゃんとそこで生きているかんじがするから。
でもまあ「へえ、韓国のオフィスは仕事中に携帯電話をマナーモードにすることもなく普通にがんがん私用電話していいのかー。あら、バスでも普通にしゃべってら」なんてそんなことに目がいっちゃうんだけどねw

携帯メールやタイプライターの文字が、場面の暗い部分にご丁寧にもその形に合わせて流れていくという見せ方には最後まで抵抗があったし、ドヤ街の廃線のさびたレールが夕日に光る、といったどこかで見たようなカットなんかも鼻にはついた。
おそらく「見ろ!」と言わんばかりに撮られた部分は全部あんまり好きじゃなかった。
現実の中での挫折や苦悩そして旅立ちといった青春映画の物語としても、何となーく中途半端で、見終わってから「え!これで終わり?」って思ったりもした。

期待しすぎて見始めた分いまいちだった部分もあるけれど、でもやっぱり淡々とよかったかなあ。
ちょっと「はっ」としたのが、映画のはじめの方で証券会社に勤める女の子が早朝出勤をして、まだ誰もいない静かなオフィスの窓を開けるシーン。きゅっと取っ手をひねって手前に窓を倒した瞬間、ソウルの町の雑音とともに外の空気が入り込んできたところ。こういうなにげないちょっとした瞬間がとても好きだった。
監督は女性の人だそうで、なんか納得。韓国映画に出てくる女性といえば顔をいじってるような美人ばっかりが出てくる印象だったけど、この映画の女の子はみんな普通でしかもとてもいい顔をしていたし。

映画の後半からなんとなく「ああこれって、くるりがBGMやったらドンピシャだなー」って思った。そう、「ジョゼと虎と魚たち」の空気感なんだよね。「子猫をお願い」のエンディングテーマが、ドライブ感溢れるギターの「ハイウェイ」だったら、ほんとぴったりだものな。

ぼくが旅に出る理由は
だいたい100コくらいあって
ひとつめはここじゃどうも
息が詰まりそうになった
ふたつめは今宵の月が
ぼくを誘っていること
みっつめは車の免許
取ってもいいかな、なんて
思っていること…

うーん、また「ジョゼ…」見返したくなってきた。




「フレンチ・カンカン」 ~いちばん好きな映画~

フレンチカンカン チラシ

1954年 ジャン・ルノワール監督 フランソワーズ・アルヌール主演

今日の昼BS2でやっていたので、ビデオ持ってるのにまた見てしまいました。

ルノワールお得意の艶笑譚。
マリア・フェリクスのベリー・ダンスのなまめかしい腰つきから始まるムーラン・ルージュ創設のものがたり。あんまり好きになれないジャン・ギャバンもこの映画ではサイコーにかっこいいw

京橋のフィルムセンターの「ジャン・ルノワール、映画のすべて。」から早10年。初日の舞台挨拶に立ったフランソワーズのしとやかなおじぎは今も忘れられません。

フレンチカンカン2

残念ながら手持ちの写真はモノクロばかりだけど、総天然色でのラストのカンカンは圧巻としか言いようがないのでした。
また劇場でかからないかなー。

フレンチカンカン1

「オールド・ボーイ」


oldboy

パク・チャヌク監督 2003年 韓国

ようやくちょっと梅雨の季節らしくなってきた雨の日。
こんな日は、だいぶ前に録画してそのままほったらかしていたビデオを見るにうってつけの日。
選んだ映画は「15年監禁された男の復讐劇」という予告篇がなかなか渋くて面白そうだった韓国映画オールド・ボーイ」。

髪の毛わしゃわしゃのヒゲヅラのおじさんがもうひとりの男のネクタイを掴んで、今にもビルの屋上から突き落とそうっていうシーンから映画が始まった。と思った途端に場面が変わり、今度はそのおじさんが酔っぱらって警察でさんざんクダを巻いているシーンが延々続く。
テンポのよいカット割となかなか味のあるおじさん(主人公)の芸達者ぶりに助けられて飽きることなく見れたけど、予告篇で抱いていたストイックでハードボイルドな印象とだーいぶ違うw それは酔っぱらいがクダを巻くというギャグっぽいシーンだから、ではなくて見せ方のせい。なので見続けてもその印象は変わらない。

コントラストの強いザラついた画面と、あざとく見える(というかありがちな?)素早い切り返しだらけのモンタージュ。うーむ。この監督ってテレビの人なのかな?市川準や大林宣彦みたいなCMあがりの人?それともこの画づくりはジャパニメーションの影響なのか?

酔っぱらって警察に保護され暴れている平凡なサラリーマンの主人公オ・デスを、友人が引き取りに来る。友人が主人公の家族に電話をしている間に、突然オ・デスは何者かに誘拐され、見知らぬ狭い部屋に監禁されてしまう。理由も相手もわからぬまま。やがて、その部屋のテレビのニュースで自分の妻が殺されたこと、自分が犯人とされていることを知る。オ・デスは復讐を誓い、脱獄するべく箸で壁を掘り続ける。拉致から15年が経ち、ついに壁の穴が外と通じた脱出目前のある日、オ・デスはガスで眠らされ、気がつくとあるビルの屋上に解放されていたのだった・・・

それが冒頭のビルの屋上のシーンに繋がっていくわけなんだけど、なにしろテンポがいいのでこの辺までは「うーん。どうなのよ・・?」と思いながらも一気に見れてしまう。
屋上のシーンで、主人公がネクタイ掴んで突き落とすかに見えたもうひとりの男は、たまたまそこに居合わせた自殺志願者で、主人公は突き落とすのではなくネクタイ掴んで自殺を止めようとしただけらしいんだけど、なんかただ映画冒頭の「つかみ」の画を撮りたいがために、そんなシーンを無理矢理作ったように見えちゃうんだよね。

場面場面の映像的な見せ方は巧いと思うけど、とにかくまったく必然性や空気感がない。そしてやたら饒舌。セリフがじゃなくて映画全体が饒舌。緊張の糸が張りつめる沈黙の間なんてどこにもありはしない。
主人公がハンマーで監禁部屋のオーナーの歯を抜く拷問シーンや、ヒロインとのセックスシーンや見所満載と言えばそうなのかもしれないけど、なにしろその全てがシツコイ。そのくせリアリティに欠けるので拷問シーンもちっとも痛くないし濡れ場も全然エロくない・・

いくら見せ方が巧くてテンポがあっても、空気感がないのでだんだん辛くなってくる。
でも現代版横溝正史的な謎解きストーリーが気になるので、おしっこを我慢してがんばって最後まで見たw
見終わった感想はただひとこと。「長いー」(爆

脚本は凝っててなかなか面白い話なのにもったいなさすぎだなーと思って、見終わってからネットでちょっと情報収集してみたら、原作は日本のコミックだそうな。原作と映画は別物だと思っている僕だけど、今回はちょっと原作読んでみたくなったかなw
でもほんと、音楽もいいしストーリーも悪くないし役者もみんな結構よかったのにな。
やっぱ監督が問題なのかなあ、と調べてみると、南北問題をテーマにした「JSA」を撮ったパク・チャヌクという人だそうだ。
うすっぺらいスパイアクション映画だった「シュリ」なんかに比べて、淡々と物語を積み上げていく「JSA」は結構いい感じだったのに、この「オールド・ボーイ」はどうもいただけない。予告篇で期待しすぎたか・・・ きっと偶然になにげなく見たのなら、これでも充分おもしろかったのかもしれないね。
あ、主人公役のチェ・ミンシクって「シュリ」にも出てるんだ。んでもって「シュリ」のヒロインはアメリカのTVドラマLOST(大変面白いのです)に出てるサン役の人なのか。ふむふむ・・・(横道にハマル)

今年の春にはアメリカのバージニア工科大学で、この映画に触発されたとされる銃乱射事件があったそうだ。
なんでもアメリカに渡ってから15年間いわれのない差別を受けたとする韓国系アメリカ人が、犯行前に「オールド・ボーイ」のスチール写真と同じポーズでハンマーを振り上げている写真や「タクシードライバー」のポーズで銃を構えている写真などををマスコミに送りつけていたとのこと。
(ニュースソース→J-CASTテレビウォッチ eiga.com 中央日報

しかしこんなリアリティに欠ける映画を模倣するなんてなあ・・・
いや、だからこそスタイリッシュな部分のみが浮き上がって模倣したくなるのかな。その意味ではタクシードライバーも同じなのかもね。
ちなみにこの映画は深作欣二監督の「バトルロワイヤル」とともにハリウッドでのリメイクの予定があったそうだが、この事件のせいでお蔵入りになったそうです。

それからこの映画はカンヌでグランプリを受賞したとのこと。
「えー大丈夫なのか、カンヌ・・」と思ったら、この年の審査委員長はクエンティン・タランティーノだったそうで、うんざりしつつ深く納得。。(このときのパルムドールは「華氏911」だし)

晩飯を食べながらテレビを見ていたら、wowowで「盗られてたまるか!」という明石家さんま主演の映画の韓国版リメイクをやっていたけど、これはさすがに途中で見るのをやめた。
どこかで見たようなカット割や80年代の日本のテレビドラマのような安っぽさ、ぱっと見が派手でわかりやすいVシネマのような演出などが「オールド・ボーイ」にも共通しているように思えた。うーん。こういう映画が最近の韓国では流行っている、ということなのだろうか。

でも、「韓流」と呼ばれるものについて語れるほど韓国映画を見ているわけではないし、「韓国映画なんてこんなもんだ」と決めつけたくはない。それを言うなら「流行ものなんてこんなもんだ」と言うべきだろう(決めつけw)。きっと底の浅いジャパニーズ・ホラーが受けている日本だって同じことなんだろうし。

そんなわけで今度は、やはり公開当時前評判の高かった韓国映画「子猫をお願い」でも見てみようかなー。


北山公園 菖蒲まつり


来週ぐらいまでやってる菖蒲まつりを見に自転車で近所の北山公園へ。
おー。咲いてる咲いてる♪


クリックすると画像が変わります。全部で7枚。

ほんとはPhotoページにアップするべきなんだが、
いっぱい撮りすぎてちとまだまだ時間かかりそうなので(汗)
とりあえずこちらでw

北山公園に行って花を見たり写真を撮ったりしていると必ず、いろいろな花の豆知識を披露してくれるボランティア精神に溢れた(?)「植物おじさん」に出会う。
この日も「いずれが菖蒲かあやめかきつばた」という文句(微妙に違うがw)とともに、アヤメと菖蒲とかきつばたの葉による見分け方を教えていただきました。説明のためにアヤメと菖蒲の葉っぱを持ち歩いているのにはちょっと驚いたけど。
曰く、葉の真ん中にくっきり太い主脈が目立つのが菖蒲、目立たないのがアヤメということでした。

確かにみんな似てるんだよね。
菖蒲と書いてアヤメとも読むし英語では全部アイリスだし、全部アヤメ科だしw(ショウブ湯のショウブはサトイモ科で、葉は似てるけどアヤメ科の花菖蒲とは別物)

僕が知っている見分け方は、花びらの付け根の色や模様によるもの。
付け根が黄色いのが菖蒲。
白いのがかきつばた。
網目模様なのがアヤメ。
どれも品種改良でいろーんなのがあるけど、僕はでろでろごてごてしてるのよりもすっきりとシンプルなのが好きかなー。

平日なのに屋台も出てて、老人ホームの団体さんやら近所の家族連れやら本格的な望遠一眼持ったカメラマンさんたちもいっぱいいました。「日が陰らないねえ」「今日は無理かな」とか言ってたのはやっぱり菖蒲には雨が似合うってことなのかな。

でもそのうちにわかにかき曇りゴロゴロ雷鳴りだして
降るかなーと思ったけどなかなか降り出さないので
それなら雨に遭う前に急いで帰るべし、と自転車に乗った途端
ざぁっと降り出す雨男w
通り雨だったようですぐ止んじゃったんだけど、しっかり濡れました。

まだ蕾の菖蒲もいっぱいあったし、また雨降りの日に行こうかな。

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