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東京国立博物館 平常展無料観覧日 ソノ2

中央ロビーからシンメトリーになっている階段を昇って2階へ。
国内の数々の洋館建築を手がけたジョサイア・コンドルの設計で1882年に開館した旧本館は関東大震災で崩落、現在の本館は渡辺仁によって設計され1938年にオープンしたそうだ。
鉄筋コンクリート建築に純和風の瓦屋根を乗せたこのタイプの建築を帝冠様式(→wikipedia)と呼ぶらしい。内装は洋風で階段の手すりや照明、明り取りのステンドグラスなどはおそらくオープン当時のままなのだろうか。

東博中央階段
さて、ジャンル別展示の1階に対して2階は時代順の展示。でも今回は縄文式土器から始まる順路の横の部屋で「中国書画精華」という企画展示をやっていたので、まずはそちらから。本来展示が行われるべき東洋館は現在改装中で休館しているので、代わりに本館でやってくれているようです。偉いっ!

二祖調心図/伝石格二祖調心図/伝石格
…って、またしてもピンボケですみません。。
上の2つでセットの水墨画は「二祖調心図」。描いたのは五代十国後蜀時代(10世紀)の石格という人。「二祖」だからふたりなのかなーと思いきや、本来「二祖」とは禅宗の祖達磨大師を次いだ二番目の祖、慧可大師という人を指すらしく、じゃあなんで二人もいるんだってことになるじゃんか。
調べてみたらこの絵は、気持ち悪い絵で有名な寒山拾得の師匠で虎を使役するといわれた唐の禅僧豊干と、日本では七福神の神様になっちゃってる、同じく唐代の禅僧である布袋を描いたものなのだとか。でもそうなると今度は、豊干の虎に対して布袋を表すべき袋はどこにあるんだろ??
と、実はいろいろ謎の多いこの絵、元々画巻だったひとつながりの絵を裁断して掛軸にしたときに袋の部分を切っちゃったんだとか、伝石格となってるけどほんとは後代の画家による模写だからてきとーなんだとか、諸説あるようです。
ちなみに「調心」とは座禅の三要素(調身・調息・調心)のひとつなんだけど、座禅っていうよりこれは明らかに寝ていませんかっ?

梅花双雀図/伝馬麟 「梅花双雀図」/伝馬麟
南宋時代(12~13世紀)の馬麟という宮廷画家が描いたと伝えられる絵。でも落款がないので確かなところはわからないとか。足利将軍家に代々伝わったものなのだそうな。
これもちょっと不思議な絵で、双雀とは言うものの、右の雀は描きかけなのかこれでいいのかなんなのか。梅の枝もちょっと変な感じだし。
猿図/伝毛松 「猿図」/伝毛松
この絵にも謎があって、まず描かれている猿は中国の猿ではなくて日本猿なのだという。作者を毛松とする言い出しっぺは狩野探幽らしいんだけど、根拠はあまりないそうだ。ただ、南宋時代に描かれた中国絵画だっていうのは確かなのかな?
あまりそうした時代や流派に詳しくない僕は猿ということで安直に森狙仙(→wikipedia)などを思い出しつつ見ていました。なにしろリアルでねー。

今いろいろ調べていたら、この「猿図」に関する面白い逸話を見つけた。
「この繪をみて即座に「日本猿ですね」と言う人がいた。動物学者があっざり追認した。大陸に日本猿は棲んでいない。宋の毛松(もうしよう)には描けまい。繪の権威たちは困った。鳩首(きゆうしゆ)協議の結果、毛松の高名を伝え聞き、日本猿を宋の国へはるばる送って描いてもらった繪だと「決め」た。依然、博物館では「重要文化財 猿図 伝毛松筆 十二世紀 南宋時代」の作品として陳列してあるが、その人は、納得したかどうか。」
「その人」とは明仁親王(現今上天皇。当時は皇太子)だったのだそうだが、それはともかくとしてこの話を素直に受け取るならば、「猿図」はやはり日本の画家によって描かれたんじゃないの?なんて思いたくもなる。実際はどうだったのかを細かく検証し、さらに日本に置ける「猿」の文化的考察にまでいたる「猿の遠景--伝毛松「猿図」のことから」というエッセイがなかなか面白かった。折しも源平合戦の世情不安な頃に南宋に猿を送り絵を描かせるような物好きがいたのか?それとも当時の日本にこんなリアルな猿を描く画家が存在しえたのか?興味のある方はぜひご一読をおすすめします。
いずれにせよリアリズムに満ちた「猿図」は、この時代においてかなり異様だったのは間違いないみたい。だからこの絵を見て、中国の水墨画家牧谿を模して「待徴的なまるい童顔、手のながい身軽な樹上の猿猴」を描いた雪舟や等伯なんかよりももっとずーっと後の幕末の絵師、森狙仙を思い浮かべてしまったというのも、あながち的外れではなかったみたいw

と、今回紹介した絵はすべて10/12までの前期展示。後期(10/14~11/8)にはあのきもちわるーい寒山拾得などが出るそうなので、それも楽しみだ!
これを機にもう少し中国絵画にも明るくなりたいなあ。


結局いつもの通り順路の縄文・弥生・古墳の部屋は通らずに、中国書画の部屋からそのまま飛鳥・奈良部屋をつるっと抜けて国宝室へ。
国宝が一点だけ展示されるこの部屋は、だいたいひと月ちょっとのペースで展示替えをしている。今出ているのは「地獄草紙」。
地獄草紙地獄草紙
この絵巻、短くて全部広げても2.5メートルぐらいしかない。文章と絵の組み合わせによって髪火流地獄、火末虫地獄、雲火霧地獄、雨炎火石地獄の4つの地獄が紹介されている。画像は雲火霧地獄(左)と髪火流地獄(右)。これらは八大地獄のひとつ、叫喚地獄の中にある十六小地獄(→wikipedia)の一部で、元々の絵巻にはもっとあったらしいんだけど現存するのはこれだけなんだとか。

リンク先のwikipediaによれば、雲火霧地獄は「火雲霧処」と表記されていて「他人に酒を飲ませて酔わせ、物笑いにした者たちが落ちる。地面から100mの高さまで吹き上がる炎の熱風で舞い上げられ、空中で回転し、縄のようにねじれ、ついには消滅してしまう」地獄であるとしている。
髪火流地獄は「五戒を守っている人に酒を与えて戒を破らせた者が落ちる。熱鉄の犬が罪人の足に噛み付き、鉄のくちばしを持った鷲が頭蓋骨に穴を開けて脳髄を飲み、狐たちが内臓を食い尽くす」地獄。
火末虫地獄は「水で薄めた酒を売って大儲けした者たちが落ちる。地・水・火・風の四大元素から来る四百四病の全てが存在し、しかもそれぞれが、地上の人間を死滅させる威力を持つ。また、罪人の身体から無数の虫が湧き出し肉や骨を食い破る」地獄。
雨炎火石地獄は「旅人に酒を飲ませ酔わせて財産を奪った者、象に酒を飲ませて暴れさせ、多くの人々を殺した者などが落ちる。赤く焼けて炎を発する石の雨が罪人たちを撃ち殺す。また、溶けた銅とハンダと血が混ざった河が流れており、罪人たちを押し流しながら焼く。全身から炎を発して燃え盛る巨大象がいて罪人を押しつぶす」地獄。
これらの小地獄を総括する叫喚地獄は、酒に関する部署のようである。それにしても設定がいちいち細かい!

地獄草紙が描かれたのは平安末期。上の「猿図」とも重なるこの時代、飢饉にはなるわ疫病は流行るわ大地震はくるわ、貴族から政権奪うべく武士やら僧兵やらは白虎するわと世の中はもう荒れ放題。さらに仏教においては、西暦にして1052年がちょうど釈迦入滅から1500年にあたるとしていて、以後は教えが形骸化して誰にも理解できなくなる「末法」の時代になるんだとか。なんでも「世も末だ」という言葉はこの末法思想から生まれたそうで、ほんとになにからなにまでお先真っ暗な時代。
また、仏教の教義の中には「六道輪廻」というのがあって、悟っていない普通の人はみな天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の6つの世界を四苦八苦しながら輪廻し続けるのだという。仏門に入り修行を積んで悟りを開けばこの輪廻から解脱できるとするのだが、残念ながら末法の時代に至ってはもはや娑婆で悟りを得ることはできないらしい。じゃあどうすればいいんだ!ということで急激に広まったのが浄土信仰。修行せずとも悟りを得なくてもなにしろただひたすらに阿弥陀如来を信じてさえいれば、輪廻を脱し極楽浄土で成仏できるのじゃ!といういわゆる「他力本願」の教えだね。
自分だけが悟るのではなく、衆生にもその道を示さんとする大乗仏教の分派として、1世紀頃に誕生した「浄土教」。奈良時代には日本にも伝来していたそうなのだが、鎮護国家の手段として用いられた奈良仏教は、どちらかといえば呪術的かつ学術的な色合いが強かったため、平安時代に統合仏教の総本山を目指していた天台宗の僧たちによって、あらためて広められたんだそうだ。貴族らは阿弥陀如来が住む極楽浄土の世界を寺院や庭園によって具現化しようとした。宇治の平等院などはその一例で、藤原道長の息子によって末法元年(1052年)に建立されたそうだ。お先真っ暗な末法の世において、浄土信仰は最後の頼みの綱だったのかもしれないね。

こんな時代背景を持つ平安末期に巨大な権力を持ったのが後白河上皇。彼は六道輪廻の世界を描いた病草紙や餓鬼草子、地獄草紙などの「六道絵」シリーズをプロデュースすることになるんだけど、この後白河って人を調べてみるとなかなか波乱にとんだ生涯で、天皇派・上皇派・藤原氏・平氏などの派閥が敵味方ぐちゃぐちゃに入り乱れる権力争いの場に半ばなりゆきで引きずり込まれて、以降何度も何度も激しい浮き沈みを繰り返している。一方でその人となりは、好奇心旺盛で芸能には人並みならぬ関心を持ち、仏教への信仰も厚かったんだとか。平清盛との関係が比較的友好だった頃には、両者協力して貴族の反対を抑え積極的に日宗貿易を行ったそうで、博多には宗人の居住区があったらしい。もしかしたら、先に紹介した「猿図」もこの時期に日本を訪れた宗の画家の手によるものなのかもね。

それから、六道輪廻っていうのは仏教における輪廻転生のひとつの考え方なのだろうと思っていたら、そうではないとする説もあるみたい。いわく、六道は生まれ変わって行く場所ではなく、迷いながら生きている人間の揺れ動く心の様子を指すのだと。
まあ地獄草紙などの六道絵は、どちらかといえば死後の世界として描かれたものなんだとは思うけど、例えば栄華を極めたかと思えば没落して幽閉され、復権を果たした後も常に平氏や延暦寺、後には源氏との確執を繰り返しつつ、しぶとく平安から鎌倉の動乱の時代を生き抜いた後白河上皇の一生なんかは、まさに六道輪廻そのもののような気がするし、娑婆に生きる人間の醜さあさましさをそのまま描いたものだと見ることもできるのかなあ、なーんて思ったりもした。

いずれにしても絵巻物を見ていつも思うのは、絵だけではなく文字も読めたらいいのになあということ。最近はキャプションに大意が解説してあったりもするけど、やっぱり原文読めたら楽しさも倍増するはずだものね。

阿弥陀如来立像/永仙 国宝室の次は平安~室町時代の仏教美術。今回はまず左の画像の「阿弥陀如来立像」が部屋の入口でお出迎え。
ガラスケースに入った1メートルにも満たない小さな立像でちょっと硬いかんじではあるけれど、なんというか凛とした気品のある姿。
鎌倉時代中期の正嘉3年(1259年)、施主真観法師による当時21歳の永仙という仏師の作。仏像頭部に入っていた墨書銘により、この時代には珍しく製作年や作者などの造像に関する詳細がわかったそうだ。
この如来像の立ち姿を「来迎形」という。「来迎」とは上で紹介した浄土教において、信心しているものが臨終を迎えたときに阿弥陀如来が直々に「迎えに来たよん」とやってくることなのだそうだ。
浄土信仰がさかんになった平安後期以降には、阿弥陀如来像が数多く製作された。奈良~平安時代の阿弥陀如来像は、中国から伝わった曼荼羅のイメージ通りに座像であらわされることが多かったんだけど、浄土教をより平易に噛み砕いて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えていれば救われるとした浄土宗が庶民の間に広がった鎌倉時代には、臨終した者をより早く迎えに来てほしいという願いから、座像から立像へとその姿は変化したのだという。阿弥陀信仰が深かった快慶が、この来迎形の阿弥陀像を数多く残しているそうだ。
快慶が活躍した時代から60年ほど後のこの正嘉という時代を調べてみると、元年に大地震あり、二年に大風、三年には大飢饉ありと相変わらずひどい天災が続いている。「都には死人を食べる尼があらわれた」なんて記述も残っていたり(『五代帝王物語』)。だから、この阿弥陀如来の造像にあたってはさぞ切実な祈りがこめられていたはずだと思うんだけど、正嘉3年3月に元号を正元と改めてからも疫病が大流行したりして、まだまだ厄災が終わることはなかったようである。。

続く宮廷の美術コーナーでは、扇形の紙に絵を描きその上にお経を書いた「扇面法華経冊子」や「扇面雑画帖」などが面白かった。やっぱり実際に扇子として使っていたのかな。
禅と水墨画コーナーは今回は個人的にそれほど好きなものはなかったけど、伝狩野元信筆とする「祖師図」という障壁絵を掛軸にしたものや、雪舟の「四季山水図」などが目を引いた。
井桁釜/伝大西定林木葉天目/中国 吉州窯
お次は茶の湯の部屋。ここも昔は素通りしてたものだけれど、よく見りゃ素敵なものいっぱい展示してあるんだよね。左は「井桁釜」江戸時代の伝大西定林作。いわゆる三猿がかわいい。大西定林は江戸時代中期の釜師。釜師ってのは茶釜を作る鋳物職人ね。下で紹介する古田織部に従って江戸入りし江戸大西家を開いた、とのことです。
右は南宋時代の中国の吉州窯で焼かれた「木葉天目」。天目ってのは、日本は鎌倉の時代に南宋の天目山の禅寺に留学した僧が持ち帰った茶碗なのだとか。吉州窯は文字や梅の花の柄などの文様の入った天目を得意としていたそうで、木葉天目の場合は、釉薬をかけた上に木の葉を乗せて焼くとその部分だけ灰がまざって色が変わるというものらしい。でもその技法は門外不出だったので、現代でもどうやって作ったのかはっきりとはわからないんだとか。
織部向付/美濃粉引徳利/朝鮮
左は江戸時代初期に美濃で焼かれた「織部向付」。
この手の器、織部焼なんて呼ばれるからてっきり織部っていう地方の焼き物なんだとずーっと思ってたら大間違い。千利休の弟子の古田織部っていう茶人プロデュースの焼き物でした。 この古田織部という人、元々は武士で古田重然という。織部ってのは官職名だそうなのだが、例えば石田三成を治部少輔と通称するようなものらしい。信長には武士として仕え、その後数寄者として千利休の跡を継ぎ、秀吉や家康には茶人として対等に渡り合ったとか。織部焼に限らず、桃山文化を代表する人だったみたいです。
右は16世紀の朝鮮で焼かれた「粉引徳利」。
朝鮮の粉引は昔からなんか好きなんだけど、キャプションによると「粉引とは灰黒色の胎土の全面に白土を塗りかけ、透明釉を掛けて焼成する技法をいう。朝鮮半島西南部の全羅道一帯で作られた。長年の使用により雨漏とよばれるしみが生じて景色をなすことから、粉引の徳利はとくに人気が高い」とのこと。うちの急須も朝鮮じゃあないと思うけど粉引で、茶渋がいい感じについてきました。キャプションにある「白土」とは泥状の磁土で白磁というものだそうで、普通は磁器の材料にするみたい。なので粉引は分類上は陶器だけど、磁器とのアイノコとも言えるかも?あ、陶土と磁土を混ぜて焼く半磁器ってのもあるんですかそうですかー。


と、2階展示の約半分ぐらいまで来ましたが、長くなっちゃったのでまたしても続く!


東博本館倉庫扉

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関連外部リンク:
 東京国立博物館 公式サイト

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