
おそらく多くの人がそうであるように、この人の絵を初めて見たのは美術の教科書に載っていた靉光の代表作とされている「眼のある風景」だろうか。
なぜか子供の頃目の絵ばかり描いていて、睫毛はどうやって描くといいのかなー、と目医者の看板とかをじぃーっと見ていた僕は、きっとこの絵も気に入っていたに違いない。
赤と黒のうずまく横長の画面の中央に誰の目ともおぼつかぬ片目が睨んでいる不思議な絵。
でもそれだけで、目の周りのみょうちきりんな形にも、靉光という絵描き自体にも興味が広がる事はなかったようだ。
大人になってから東京近代美術館の常設展で本物を見ても、好きな絵だなとは思ってもそれ以上気になりはしなかったし、いつの時代の画家なのかすら知らないままだった。
何年か前に近美の小特集展示で靉光がクローズアップされていたときに「眼のある風景」以外の作品や素描をいくつか展示していたことがあって、そのとき初めて靉光という画家自身に少し触れられた気がした。
そして生誕100年を記念した今回の展覧会では、初期から38歳で戦病死した最晩年までのさまざまに移り変わっていったその画業をひととおり網羅していて、ようやく彼の全体像を見ることができたのだった。
チケットを切ってもらって会場に入るとまず3枚の人物画がある。父と養父と祖母を描いた木炭デッサンで、中でも「父の像」は10歳の時に描いたものなのだが、よくある画家の幼少時の「巧い」作品紹介では済ますことのできない、10歳にして既に立派なひとりの画家の(もしかすると今回の展示で一番かもしれないほどの)作品としての出来にまず驚かされる。

父の像 1917年
美校時代の石膏デッサンははっきりいって巧くない。その後のルオーやゴッホに影響を受けたという初期の作品はセンスの良さを感じさせるが、やはり「父の像」には遠く及ばない気がする。さまざまな手法や様式を試行錯誤してそれが実を結びだすのは「ロウ画」と呼ばれる技法によるシリーズぐらいから。ロウ画とは岩彩ににクレヨンやチョークを溶かしたものを混ぜて描くものだそうで、絵の具が乾くと鑞による細かいマチエールが浮かび上がる仕組み。こじんまりとまとまった小品ばかりだが、家に飾りたいなーと思うものが多かった。やっぱりこの人は力技の人ではなく、センスの人なのかも。

左/乞食の音楽家 右/編み物をする女 1934年
ロウ画の後、靉光の表現は暗い闇の中に炎の光で浮かび上がるような、どろっとした油絵へと変貌する。
そして「ライオン」の連作や「馬」などを経てあの「眼のある風景」へ至ることになる。

肖像画(貴婦人) 1938年

眼のある風景 1938年
「日本のシュールレアリズムの代表作」と言われたこの作品に続き、「花園」や「静物(雉)」など暗く幻想的な作風が続くが、この辺はどうもあんまり好きじゃない。「眼のある風景」までとなにか違う。ロウ画の頃に感じたセンスやユーモラスさもなく、ただ重い。画家本人は波に乗っていた時期なのだろうが、初期よりもこの時期の方が行き詰まって模索しているように見えてしまうのはなぜだろう。

靉光/花(やまあららぎ) 1942年頃
同時期に墨や鉛筆によって描かれた素描や細密画が多数展示されていた。
元々は油絵作品のために描かれていたのだろうし、初期のものはスケッチ的なものやエスキース的なものが多いが、この自由な伸びやかさはどうだろう。

蓮と太陽 1938-1939年頃

鷲と駝鳥 蓮と太陽 1938-1939年頃

左/少年 右/長男(石村力)の像 1940年頃

おこぜ 1941年頃
靉光は宋画に代表される東洋画への関心を持っていたそうで、次第にその表現はより緻密なものとなってゆく。エッシャーを思わせるようなシュールっぽい作品もあるし、日本画のように繊細な植物画や人物画も多数あった。

作品 1941年

蛾 1941年頃

男の顔(2) 1941年頃

男の顔[末広一一氏の像] 1941年頃
筆で描かれたとされているが、細い細いその描線は決して流麗ではなくむしろぎこちないので、紙にひっかかるペン画のように見えてしまうのかも。茶紙に鉛筆で下絵を描き、その上に墨線を引き部分的に淡く色を乗せた百合やあけびやくちなし達は、絵画展に発表するために描かれたものではないのだろう。そしてだからこそ、直感的なセンスに満ち満ちているこれらの絵は、10歳の頃に描いた「父の像」と直結しているのだ。

くちなし 1941年頃

畠山雅介氏の像 1941年
作品として見せる事を考え、毒々しい真っ青な葉っぱを描いてしまうような油絵より、素直にただ見たものを写し取ろうとするこれらのスケッチや墨絵にこそ、靉光本来の伸びやかな精神を感じる。描く楽しみに溢れた全くてらいのないこれらの無数の断片は、一種落書き的なまでに自由奔放なのだと思う。
ほぼ同時期に並行して描かれていた幻想的で暗い西洋画と淡く明るい東洋画。これらは対比されることはあっても未だひとつに融合することは無い。
折しも時代は太平洋戦争まっただ中。兵士や国民を鼓舞する戦争画がもてはやされる中、次第に幻想的なシュールレアリズムは検閲の対象となり、瀧口修造らが治安維持法違反で検挙される時代。靉光の作風もまた変更を余儀なくされるが、油絵のどろどろした質感は変わらない。
ただ、暗喩のない、より現実的なものにモチーフやテーマを変更せざるを得なかったためか、その作風は期せずして、ひたすら動物園に通い続けて形を追い続けていた「ライオン」連作の頃に似ているように見える。

ばら 1943年頃
テーマや表現の制限からこの時期の作品はみなとても地味に見えるし、その意味では「眼のある風景」以後のシュールレアリズム的な作品群を靉光の黄金期とする見方もうなずけなくはない。けれど、この外的な制約の中でも靉光本来の、対象を凝視し描くこと自体を楽しむといった精神は失われることなく、むしろ墨による細密画に見られた素直な喜びといったものが、油絵の中にもよりはっきりと顕われてきているように感じられた。

花(グラジオラス)
シュールレアリズムに傾倒していた頃にはなし得なかった西洋と東洋の融合、とでもいったものが、皮肉にもここにきてようやく実を結びだそうとしていたのかもしれない。
靉光展の後で見た常設展の中に、薄っぺらいタッチでゼロ戦の発進風景を描いている、映画の看板絵のようにやたらバカでかい藤田嗣治の絵(「南昌飛行場の焼打」)なんかがあったけど、本当に靉光には、この時代に生きていて戦争をモチーフにした絵が1枚もない。
展覧会の最後は最晩年の3枚の自画像で終わる。いずれも顔を右上に向けたバストショットの構図だが、ぐにゃりと顔がひしゃげそうなもの、眼鏡をかけていて眼は描かれていない寂しげなもの、白い壁のような胸を持つどっしりとしたもの、とそれぞれすべて印象が異なっている。
誰もが絶賛するこの自画像たちは、残念ながら僕にはあまりピンとこなかった。最後の自画像を描いた翌年、召集を受けた靉光はそのまま戦地で病死してしまうのだし、おそらくはそれぞれの自画像から、時代の風圧に吹き飛ばされそうになり、負けそうにもなり、それでも自分を貫き通そうとする強い意志、とでもいったものを「感じ取る」べきなのだろう。確かに気合がはいった絵ではある。でもそこには描くことへの楽しみや喜びはなくて、なんというかとてもマッチョなもののみを感じてしまうのだ。
これを「靉光の最高傑作」とする人は多いようだが、僕にはとてもそうは思えない。それならば一番はじめの「父の像」こそが最高傑作なんだろうにと思ってしまう。おそらくはこの3枚の自画像は、家族を愛し、描くことを楽しんだ靉光の生涯の中で描かれた、唯一の悲壮な「戦争画」なのかもしれない。
当時の絵画展に出品されて話題を博した大きくて暗い画面の油絵や、戦争に殺された悲惨な画家の自画像といったものばかりを見て靉光を見た気になってしまうからこそ、光と喜びに満ち満ちた大量な素描や細密画、淡彩画を見れてよかったと思う。きっとその両方で靉光なんだろうけどね。
そして、晩年の風景画や静物画に芽生え始めていた西洋絵画による東洋的な表現が、画家の戦病死によって断ち切られてしまったことは本当に残念でならない。さまざまな模索と変遷を経てきた靉光が戦後どのような絵を描いたか、それを見ることはもう絶対にできないんだから。
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